背 中 合 わ せ



青学テニス部の1年生たちにとっては、テニス部へ入部してから初めて体験する校内ランキング戦だった。
部内の誰もが、校内ランキング戦をやった1日は、いつもより1日が長いと感じる。それは、1年生だった手塚を筆頭に、不二、乾、大石、菊丸、河村にとっても同様なことだった。
Aブロックだった手塚と不二は、1年生らしかぬ実力を持ってしてぶつかり合った。
結果は、周囲の誰もが予想していたように、手塚の勝ちだった。けして不二が弱かったわけではなく、ただ、手塚が誰よりも強かった、というだけのことだった。
周りは、手塚に負けた不二に、手塚相手に良くやった、と激励の言葉を贈った。しかし、それは不二にとって、なんの気休めにもならなかったのだ。
負けは負け。どんなに良い試合をしたとしても、負けてしまっては何の意味も成さなかった。

心配そうな表情をしながら、帰ろうと声をかけてきた英二や他の部員もいたが、不二はそれを全て断った。
嬉しくないわけではない。優しくしてくれているということは、嬉しいことだった。だから、優しくしてくれている相手の誘いを断わることは、不二にとっては辛いことでもあった。
どんどん部室に戻っていく部員達を背に、不二は、1人、部室とは反対の方向へと向かった。

1人、大きな壁に向かって立ち向かっていく。それは、一体何を意味するのか。
その時の不二には、よくわからなかった。
でも、今日の手塚との試合が、それに似たものではないか・・・と、心の底で思った。





校舎の壁で、部活が終わっても壁打ちをしていた不二だが、日が暮れ始めると、それをやめた。
傍に置いてあったドリンクとスポーツタオルを手にすると、コートの付近にある水道へと足を向けた。もう夏休みが終わったとはいえ、まだ暑さが残っている。しかも、運動をした後だから、ウェアに纏わりつく汗が不二に不快感を与えていた。運動中は気にならなくても、こうして終わってしまえばそれに気付く。

「・・・・・・・・・」

当たり前だったが、もう誰もいない。水道場から、周りを見渡したが、人1人見当たらない。

「・・・っ」

普段はしないことだったが、不二は、頭から水を被った。汗を流したいと同時に、頭を冷やしたい、という気持ちもあったからだ。
冷たい、と感じてくると、何故か涙が流れそうになった。まるで、冷たいと鮮明に感じるまでに感覚が甦ってきて、同じように現実に引き戻されるようだった。
手塚に負けた。と。
それでも、理性と意地でそれを抑えて、タオルを手にした。

「不二」

「・・・・・・ぇ」

聞きなれた声が手塚のものだ、と察するまで、不二には1秒もいらなかった。驚いて、手塚の声のする後ろを振り向くと、不二と同様にスポーツタオルを持った手塚がいた。

「手塚・・・・・・なにやってるの?」
「お前が余りにも遅いから、暇潰しに向こうで壁打ちをしていた」

そう言って、手塚の指差した方向は、不二の練習していた校舎とは、全くの反対側だった。どうりで不二が周りを探しても、誰もいないわけだった。
しかし、不二には手塚の言ったことが、とてもじゃないが解せなかった。

「僕を待ってたの?」
「ああ」

臆することもなく、躊躇することもなく、手塚はそう言った。今日、自分が『負かせた』相手に、だ。

「なんで・・・」
「生憎鍵当番だった・・・・・・お前が帰ってこない限りには、鍵を締められない」
「ば・・・っかじゃない。そんなの、置手紙でもしてくれれば僕がやったのに・・・手塚まで、帰りが遅くなる必要ないじゃないか」

こんな、馬鹿みたいに気真面目で正直な手塚が、不二は嫌いではなかったが、その対象が自分ともなれば、話は別だった。
苛々してくる。しかも、『こんな日』に限って。本当なら、顔すら合わせたくないというのに。

「・・・・・・・・・そうだな、その手もあったな」

改めて、しみじみと考えている手塚を見ていたら、それを罵ってる自分が馬鹿みたいだ、と不二は思えてきて、それ以上は言わなかった。

「ごめん」

タオルで髪を乾かしながら、不二は手塚から目を逸らした。

「こんなに遅くまで残らせて」
「それは構わない・・・・・・どうした?」

さっきから一向に自分の方を向かない不二に疑問を抱いたのか、手塚は不二の元へと近付いた。タオルで頭から顔を隠してあるせいで、余計に不二の表情が読み取りづらかった。

「近寄らないで」
「まだ気にしているのか・・・・・・今日の試合」

不二の様子から、その原因を察したのか、手塚が口を開いた。

「さいて・・・・・・っ!!!」
「・・・・・・っぅ・・・」

手塚の言葉に、不二は素早く体を動かすと、水道の蛇口を捻って水を出し、それを手塚に向けて投げ掛けた。頭から見事に水を被った手塚は、髪はもとより眼鏡まで濡れた。

「人の気にしてること、わざわざ、馬鹿正直に口にっ・・・・・・出すかな・・・」

また、涙が流れそうになって、これなら顔を拭くんじゃなかったと不二は思った。それなら、泣いているのか、濡れているのかの区別もつかなかったというのに。
手塚は、少しの間、自分になにが起こったのか、わからないというように体が動かなかった。不二と言えば、誰もが、優しく穏やかで怒ったところなど見たことがないと、口にするような奴だった。それが、今こうして感情を曝け出しているのだ。しかし、そう思ったのは手塚だけではなく、不二自身も自分はなにをしてしまったのか、と思っていた。
段々と、この現状を理解してくると、手塚はらしくもなく、言葉より先に体が動いていた。先程の不二と同様、水道の蛇口を捻り、その水を手で不二に向かって投げた。

「・・・・・・・・・なっ・・・」

まさか、手塚が反撃してくるとは思わなかったのか、不二は、避けることもままならなく、折角渇き始めた頭を始め、首から上が濡れてしまった。

「なにする・・・っ」
「それはこっちのセリフだ。これで、少しは頭が冷えたんじゃないか?」
「・・・・・・・・・っ」

痛いところを突かれて、不二は言葉を失った。始めに手を出した自分が悪い、不二もそれはわかってはいたが、どうしても引けないものがあった。

「・・・・・・・・・・・・そうだよ・・・手塚に負けたのが悔しかった」
「負けたら、誰だって悔しいだろう」
「違う。手塚だから、こんなに悔しかった・・・・・・手塚に負けないように、強くなったはずだったんだ」

不二は、同級生では手塚以外に負けを許したことはなかった。だから、手塚には負けたくない、という気持ちが誰よりも強かったのだ。

「手塚との試合は楽しかった・・・・・・他の人じゃ感じられないくらいに、興奮したし緊張もした」

水で濡れた髪をまた、不二はタオルで拭きながら喋った。手塚もそれにつられて、タオルで拭き始めた。

「だから、尚更負けられなかった・・・・・・」
「楽しかった・・・俺も」

勝ったから楽しかったわけじゃない、不二との試合が楽しかった、手塚はそう言葉を繋げた。不二は言葉は発せず、ただ手塚の言葉に頷くだけだった。

「だから、俺にとって楽しかった試合で、お前が傷ついてもらっては困る」

押し付けがましいな、と不二は思ったが、手塚が正直にそう言っているのはわかっていた。手塚なりに励ましてくれているのだろう、とは思ったが、普通、自分が負かした相手をこんなふうに励ますだろうか、というのが不二の本音だった。だから、余計に手塚は優しかった。

「でもね・・・・・・負けは負けで、なんの意味もないんだよ。どんなに良い試合をしたって、負けたらそこで終わりなんだ。なんの意味もない」

手塚との試合は、不二にとって楽しくて、良い試合だったと思う。他の誰を相手にするよりも、自分の本気が引き出されるからだ。だから、その本気の自分が引き出された試合で負けることは、相当なショックなのだ。本気の力で負けては、その相手には完全に敵わない、と言われているのと同じだった。

「そんなことはないだろう」
「じゃあ、僕達が3年になって、全国大会の夢に向かっている時に、途中で負けたらどうする?どんなに良い試合をしても負けたらそこで夢は途絶えちゃうんだよ?良い試合だった、で済む話なの?」
「・・・・・・・・・」
「答えられない?」

手塚は不二にとって、こんな奴だ。
『全国大会』という夢について語られれば、熱くもなり本気にもなり、誰よりもよく考えている。だから、部活のことは誰よりもよく見ているし、大事に思っている。そして、誰よりも強い。
きっと、手塚に尋ねたことは聞いてはいけないこと、不二はそう判断した。こんな手塚だから、考えなくてもいいことまで考えてしまうことになるのだ、そう思ったから。

「・・・いいよ、そんなの答えなくて。答えられないのわかってて言ってるんだから」
「だが・・・」
「良い試合だった・・・楽しかった。本当にそう思ってる・・・・・・・・・・・・だから、これ以上何も言わないで」

不二はそう言って、手塚からの言葉を拒絶した。手塚の横を通り過ぎて、不二は、部室へと向かった。
俯く不二からは、やはり、さっきのように表情が窺えなかった。
そのまま、不二を引き止めることはできたが、手塚はそれをできないのかしないのかはわからないが、ただ、部室へとあるいて行く不二の後について行くことしかしなかった。





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