ほんとうさいわい

      は
いったいなんだろう
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それ、は、闇夜に紛れてやって来た。けれども、楸瑛は壁に立て掛けてある自らの剣に手を伸ばさず、臆することもなく、その識った気配が動くのを意識で追う。それはとても静かだ、否、静寂と訳すよりも寧ろ相応しいのは無音ではないのかと思えるほどだ、両者の差は寸毫ではあるが、それでも受け止める側の印象はやはり異なる。それでも、跫(あしおと)や他の音を断つ反面、気配だけは消さないことがとても可笑しく思えて、楸瑛は口許に手を持っていく。

「・・・・・・おかえり、龍蓮。あの子達との時間は楽しかったかい、」

敢えて名前など出さなくても、あの子達という言葉の意味する処は、龍蓮にとってたった一つしかないことを、楸瑛は識っている。

「愚問。そう言う愚兄は暇を持て余していたように見受ける、どうせ、李絳攸に晩酌の誘いでもしたところあっさり断られたのだろう、」
「・・・・・・・・・・・・黙ってなさい」
「偶にはひとりで自らを振り返るのも大事だ、でなければ、愚兄のその人格形成未発達な部分も常春頭な部分も未来永劫なおらない」

龍蓮は、果たして楸瑛の言葉など聞いていなかったと云わんばかりに言葉を繋げていく。

「黙りなさい、龍蓮。云っておくけれど、私に常春と、そう云ってもいいのは絳攸だけだよ、」

それは比較的自由奔放に生きている龍蓮の発言に関して指図するものであったけれど、楸瑛はこれは譲れないと、それを止めることはしなかった。
そんな(傍から見ても愚かしい)兄を、龍蓮は(だから常春なのだと)呆れたように見遣る。その外見は、誰が見ても藍家の血を濃く受け継いでいる、顏も頭も肉体的な強靭さも、藍家直系として一応は申し分ないのに、何処で間違えたのか、兄は王を主に選んだ。三つ子で忌み子と蔑まれる兄や幼くして『藍龍蓮』を襲名した自分も異色の存在ではあるけれど、楸瑛もまた、それらとは別の意味で特異な存在であるということに気付いたのは、一体何時頃だっただろうかと、龍蓮は幼い頃のものであろう自らの記憶を遡った。が、面倒臭くなって已めた。

「・・・・・・ああ、でも、私が今こうしているのは、君の帰りを待っていたからでもあるんだよ、」

かたんと音をたて、今迄腰を落ち着けていた椅子から、楸瑛は立ち上がった。その所作に遵うように、下ろした髪が揺蕩う。立ち上がれば、視線は自然とまだ背の低い龍蓮へと合わせるために下へ向く。まだ弱冠を迎えていない龍蓮は正に成長過程真っ只中であるので、この互いの目線の関係はこれからも日々変化していくのだろう。

「正直な話、君が他人に執着するのも、誰かに何かを求めるのも初めてで、反応に困っているんだ」

兄としてとても喜ばしいことではあるのだ、楸瑛はそう内心は呟く。けれども、そんな自分の心裡すらも、この賢すぎる弟は悟ってしまう。元来、無表情であるはずの龍蓮の表情からは(それは今も変わらないけれど)、今更だ、と語っているようにも思えて、楸瑛は何処か居心地の悪さを感じつつも、薄く笑む。
本当に重要な話は、相手にも依るが、視線を交えただけで会話を成立させることができるだけの技量も経験も(周囲に秘密を漏らさないためにも)持ち合わせた楸瑛だが(それは、弟である龍蓮にも云える)、何故か、今は兄として弟と言葉を交わしたいのだと、本心で感じる。それに偽りはない。
座らないのかと、龍蓮に椅子を勧めるが、視線だけで断られる。

「龍蓮、君はあの子達をどう思う、」

楸瑛は、本当に好奇心のつもりで口にした。

「それを聞いたところで、愚兄はどうする、」

視線を合わそうとせず、ただ闇に包まれながらも月明かりで視界の利く庭を窗(まど)越しにぼぅと眺めて、龍蓮は呟く。その瞳には幾許もの感慨も含まれてはいなかったけれど、楸瑛は気付かなかった振りをして、真面目に、けれども軽い調子で言葉を返す。

「別に、どうもしないよ・・・・・・ああ、勿論、家には一切関わりのない発言であることは保障する」

家に対しての忠誠心は確実に持ち合わせていることをはっきりと自覚している楸瑛だが、けれども、弟との個人的な(それも私的な)会話にまでそれを引っ張り込むほど無粋ではないとも(又、干渉してくるようならば拒否するくらいの気概は持ち合わせているとも)、楸瑛自身思っている。視線は相変わらず交わらず、逸らされたままだ。

「・・・・・・・・・・・・とても、いとしい、と、思えた」

それこそ、吾が身よりも。
素直な、それこそ何の含みのない笑顏や怒った顏で、思いの丈を向けられることの歓喜。今迄感じ得ることのなかった激情すら識った。まだ見えぬ将来の不安すらも打ち消してしまうほどの、邂逅の喜びは、最早言葉では云い尽くせない。

「・・・本当に「いとしい」と、そう「思った」のかい、」

それは、けして、借りものの感情ではないのか。
今度こそ、龍蓮は楸瑛へと顏を向け、小さく肯く。自分の言葉は、果たして問い掛けであり、答えを要求するものであったのかもしれないけれど、そんなこと聞くまでもないのは、楸瑛自身もう理解している。それでも、それを求めたのは、何故か。

「・・・・・・倖せになって欲しいよ、龍蓮、」

本人ですら半ば諦めていたとも云える、友という存在を、弟は手に入れた。こうして、弟の倖せを願うのは、兄としての特権だろうか。自分も、弟の友のことをとても可愛いとは思う、けれども、それと家と較べてしまえばあっさりと後者を択んでしまうほどに陳腐なものでしかない。弟が、彼らによって傷付けられるようなことがあれば、恐らく自分は怒るだろう(けれども、彼らに手出しなんて、この弟がきっとさせてはくれないだろう)。

「何を以て倖せを感じるかなど定められてはいない。その意識の方向性すら、初めから誰も固定されていない」

結局は、自分で得るものなのだと。
そう云って、龍蓮は再び視線を窗の外へと移す。その所作が、拒絶を意味しないことを理解している楸瑛は、然して気にすることもなく口を開く。

「・・・それでも、私は、君の倖せを願っているよ」
「だから愚兄は愚兄なのだ。自分の立つ場所がどれほど危ういか、わかっていながら、周囲のことばかり口を挿みたがる、」

近い将来、楸瑛に降り懸かるだろう終わりのとき、それを本人が知らぬはずもない。

「・・・・・・だからだよ、」

龍蓮、とそう呟くのがわかったが、余りにも微小であったため、直ぐに宙に霧散した。だが、そう云った刹那の楸瑛の表情は、視線を逸らしていた龍蓮には見えぬものではあったけれど、想像に難くないものでもあった。それでも、その言葉が、果たして何を意味するのかなど、龍蓮は考えたくもなかった。





⇒ 續
湿っぽい。でも、一度書きたかった藍兄弟モノ。書いたことありそうでなかったなぁ、と今更感じました。彩雲の兄弟って、なんか萌えますよね(同意を求めるな)紫といい藍といい紅といい碧(姉弟だけど)といい、大好きです。ブラコンばっか・・・・・・(汗
このお話は、結構初期の方かな。少なくとも、影月と秀麗は茶州に行ってはいないし。国試を受けてから茶州州牧指名までそれほど時間はないのですが、全くの捏造なので。心の友たちに夕食を招かれたその後、って感じだなぁ、とか読み取ってくれると非常にありがたいです。