悲しい夜鷹の歌
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「―――――でかしましたわ!」
碧珀明が、碧家四門の一である欧陽家の邸から戻り暫くして、いきなり闔(とびら)を抉じ開けるようにして室内へと飛び込んできたのは、紛れもなく実姉の碧歌梨であった。自分と同様に、癖のある長い巻き髪は平素と異なり下ろされていて、装いも睡衣である様子から、就寝前を予想させた。
珀明は欧陽玉から先程手渡された書簡を、読み掛けのまま諦観を含めて半ば投遣りに机案の上に抛る。無視したくてもできないのが、歌梨という人物であり存在なのである。それが、仮令壮絶な吏部での激務に加え、姉達が発端となった事件の事後処理で心身共にくたくたな状態であるときなのだとしても、だ。
「姉さん、もう遅いので控えて下さい」
子供ですら理解できることを指摘するのは憚りたいのだが、少しでも牽制しておかなければ何を仕出かすかわからないところが、姉の怖いところで凄いところだと、珀明は歌梨に見えないようにして溜息を吐いた。
「・・・そんなことはどうでもいいのですわ!珀、貴方、あの秀麗ちゃんとお友達ですわね?!」
ぐわっと覆い被さるように両肩を掴まれ、物凄い剣幕で迫られる。顏が近過ぎると、珀明は視線と共に顏を逸らすが、そんなことで歌梨の拘束からは逃れられない。このような場合、速やかなる逃亡よりも素直な吐露の方が、後先のことを考えても断然楽だと知っている珀明は、素直に口を開く。
「・・・・・・それが、どうかしたのですか、」
秀麗が姉の好みの的を見事に射ていることは、既に珀明の識るところではあるが、だからと云って、それと自分は関係がないはずだ、否、ないと思いたいのが実情だ。珀明は小さく嘯くが、それが興奮気味の歌梨の耳に届くかと云えば、そんなはずは全くない。
「珀。わたくしのためにも、今すぐ秀麗ちゃんに求婚を!」
「・・・・・・・・・な、何を云って、」
「ですから、秀麗ちゃんに求婚をしていらっしゃいと云っているのですわ。貴方が秀麗ちゃんと結婚すれば、秀麗ちゃんは自動的にわたくしの義妹に・・・・・・・・・なんて素敵!」
突拍子のない人だとは重々承知していた、だが、これほど突拍子もないことを云われることもなかなかない。そのため、珀明は不覚にも、呆れてものも云えない状態に陥った。
家のために秀麗と政略結婚をしろと云われるなら、珀明は理解ができた。だが、歌梨の云い分は、それとは全く異なる処にある。詰まるところ、自分好みの可愛い義妹が欲しいがためのものだ。だが、政略結婚云々は捨て置いても、はいそうですかわかりました姉上御安い御用ですなどと、珀明が素直に頷けるはずもない。秀麗は、友だ。
「厭だ、」
「まぁ、そんな可愛らしく顏を顰めて反抗しようなんて甘いわ!貴方のその蜂蜜色の髪よりももっともっと甘いわ!悔しかったら今すぐ妹になってみせなさい!」
「厭だ!」
高らかに笑う歌梨の言葉は、既に解読不可能で、珀明はこんなことに付き合っている自分が情けない。
「あんなに可愛い秀麗ちゃんを嫌いということはないのでしょう?」
すると、幾分か控え目な態度で訊ねてくる歌梨を、珀明は今度こそはとしっかりと見据えた。相変わらず疲労感は纏わりついているが、この姉を放っておくと、只管(ひたすら)突っ走ってしまうので(それは今回の事件で実証済みである)、今目の前にある問題はすぐにでも解決させる方が無難だ。
「好きか嫌いか、ならば好きですよ。さっき姉さんが云った通り、あいつは友人ですから」
だが、珀明がはっきりと云えることは、その好きという感情が恋愛感情ではなく、友としてのそれであるということだ。最も、友としての付き合いと云っても、殆ど呶鳴ったり呆れたりする割合の多い付き合いだが。
友としてその感情を深めていくことはあるとしても、それが愛情へと発展することは、まず秀麗相手では有り得ないと云うのが、今のところの珀明の主張だ。
「・・・それに、秀麗は紅家の姫です、仮令求婚したとしても無駄なのは明白です」
「そんなもの、愛さえあれば、」
「友愛はあっても、姉さんの云うような愛はありません」
歌梨が頑固であるように、自分も頑固であることを珀明は自覚しているため、姉の押しに負けないためにも、そして、一歩たりとも引かないためにも、歌梨の言葉を遮って言葉を返す。そして、歌梨と視線を合わせた。顎を引く、しっかりと姉を見据え、珀明は抑揚のない声で姉さんと呼んだ。
歌梨は少し羽目を外し過ぎる傾向にはあるが、けして愚かではない。珀明の様子に何かを感じ取ると、握り込んでいた拳を静かに解き、同様に真剣な眼差しを向けてくる。その視線が、次の言葉を促しているように感じるのは、恐らく珀明の勘違いではないのだろう。
「・・・・・・・・・僕は、官吏です。いくら下っ端でも、官吏です、」
「存じていますわ」
珀明の言葉に、歌梨は目を眇めて答えた。
歌梨は、弟である珀明が自分のためである他、何のためにその道を択んだのか、又択ばざるを得なくなったのかを識っていた。それでも、珀明が官吏になることを心から賛成していたわけではない。弟が遠く離れた王都で、剰つ、とてもではないが安全と云えない場所で、官吏として勤めようとしているのを、姉として見過ごせるはずもない。だが、歌梨は、人一倍曲ったことが嫌いで、優しくて自分に厳しい弟が、その未だ小さな手掌で、肩で、何を支えようと躍起になっているのかも、やはり識っていた。止めて欲しいと云って止めてくれるのであれば、幾度となく口にしていた。
「あいつ―――――秀麗も官吏です」
そう口にした瞬間、歌梨が瞼を下ろすのが、珀明にはわかった。自分と同じ碧眼が、僅かばかり陰る。
「僕に官吏としての誇りがあるように、きっと、否、絶対に秀麗にもあります」
友としてそれを助けることがあったとしても、遮るようなことがあってはならない。恐らく、今の秀麗にこのような話は、仮令自分でなくとも持ち込んではいけないのだと、珀明は解釈している。少なくとも、官吏としての秀麗を受け入れることができるだけの、そして紅家に認められるだけの相手ではない限り、無理な話と云える。
「そうですわね、珀明の云う通りかもしれませんわ・・・・・・・・・でも、わたしく、諦めてはいませんことよ」
薄く陰っていた歌梨の瞳に、先程と露ほども変わらぬ強い意志が再び現れて、珀明は、自分でも可笑しいとは思いながらも、少しだけ安堵を覚えた。その方が、断然姉らしいのだから、今はもうそれで良いのだとさえ思えて、苦笑を洩らした。とにかく姉の意志がどうであれ、自分のそれを変えられるわけではないのだから。
「―――――母上ぇ、」
珀明が言葉を繋げようと口を開きかけると、室の入口から子供の声がして、その声の持ち主を瞬時に理解した二人は、視線をそちらへと向ける。そこには、珀明の甥で、歌梨の息子である万里が、枕を両手に携えて佇んでいた。まだ五歳の小さな身体には、枕が不釣り合いなほど大きく見えるのが笑みを誘う。
「眠いです、母上。早く寝ようよ」
そう歌梨に訴えてきた万里は、眠たげな目を擦り、歌梨に近付いてくる。歌梨は、すぐ傍へと来た万里の髪を梳くようにして頭を撫でてやりながら、母親の表情でそうねと返事をしていた。
「・・・・・・・・・珀明、貴方に碧家情報を教えましょう、」
だが、万里へと向けられていた視線が珀明へと移ると、そこに宿るものは母性を湛えたものではなく、文字通り、碧家に属する者もののそれだった。瞬間、珀明は息を呑んだ。畏怖からではない、驚愕とも異なる、では一体何なのか、自問自答をするが察しかねた。
「藍家の五男、彼も求婚者の一人ですわ」
「―――っ、・・・・・・・・・・・・そう、ですか、」
これぞ正に驚愕だろうと、珀明は他人事のように感じた。けれども、それを悟られまいと言葉を返した(とてもたどたどしいと思った)。ここで動揺を見せることは、己の矜持が許さないような気がしたからだ。誰に対する矜持か、仮に聞かれても、その答えは口にはしないだろうと、珀明は淡く考えていた。
藍家の五男、という言葉は珀明が自身で思う以上に、珀明に衝撃を与えていた。その事実を識らなかったことより、思わず過敏に反応してしまったことより、けして魯鈍とは云えぬ自分の頭が、その話を、友である二人の立場を考慮し、計算した上で、少なからず納得のゆくものだと弾き出してしまったことに、幾許かの自己嫌悪感と喪失感に苛まれた。
「・・・お休みなさい」
歌梨が、よく解らないと云ったふうの万里を促すようにしながら、珀明へと言葉を投げ掛けてきた。自分の態度をどのように歌梨が受け止めているのかを認めたくないためか、視線を合わせる気にもならない。それでも、何とか同じように言葉を返したつもりだが、珀明は果たしてそれが上手い具合にいったのかどうかも判らなかった。ただ目の前にあるのが、自分には理解し難いものであることだけは解る。そのせいか、いつ歌梨達が退室したのかさえも正確に覚えていなかった。
(重症だ・・・・・・)
視界に映るものも映らないものも全て遮断したくて堪らない衝動に駆られ、珀明は、能動的に室内を燈していた灯を消し、更に、黒に包まれた室内を仄かに燈す月明かりすらも邪魔だと云わんばかりに、その視界すらも遮断した。けれども、瞼の裏には朧なかたちをした何かが付き纏い、殊に煩わしかった。
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瞼を上げた。暫く瞼を閉じていたせいで、暫くは視界がぼんやりとしたものであった。
幾何学模様が特徴的な切り窓から射し込む淡い月影が床へと当たっている。その光の筋は、室内に漂う塵埃を露わにしていた。その位置が、少し前に確認したときと幾分か移動しているのに気が付いて、珀明は随分と思考が飛んでいたことを自覚した。
月夜の涼しさに、己の身体を軽く抱き締めるようにして、珀明は両方の上膊を手掌で幾度か擦り、ささやかな暖をとろうとする。けれども、その行為が、まるですぐ目の前にあったものを両手で捉え損ねた顛末のようで、珀明は薄く嘲笑を零した。
かた、と云う音が庭院へと續く闔の外側から聞こえてきた。風の音だろうと見当をつけて、珀明はそこから視線を外す。否、正確には風の音ではなく、風によって揺れる草木の音なのだが。
けれども、ふと、何か違和感のようなものが頭を過ぎって、それまでの考えを改めた。そして、その正体が、けして違和感ではないことに気付き、緩んでいた唇を真一文字に閉じた。
果たして、珀明は、今し方頭を過ぎったものの名を識っていた。既視感、と咥内で小さく呟くと、それがより一層実感するものへと摩り替わってゆく。
(・・・・・・こういうときに限って、あいつは来るんだ、)
風があの男を伴ってくるのではない、寧ろ逆だ。あの男が風を連れてくるのだ。宛ら鳥のようだと思う。
珀明は、意を決したかのような面持ちで闔へと歩み寄り、手を掛け、極力音をたてないようにと注意を払って、両開きである扉の片側だけを開いた。そして、人一人が僅かな余裕を持って通れる程の間隙を作り、器用にそこへと身体を滑り込ませて外へと出る。
庭院の紅梅の匂いが淡く漂い、珀明の鼻腔を小さく擽る。
(別に、期待しているわけじゃない・・・)
云い訳染みた言葉しか生じてこなくなった自分の思考回路が厭になった。
昊は、やはりというか当然のように闇に包まれて、けれども散らばる星の周りは仄かに明るく、そして月の周りは一段と明るい。雲がかかることもなく、月の恩恵は等しく地上へと降り注いでいるのがわかる。今宵は満月ではないにしても、上弦よりは幾分か月は満ちている。
途端、ささやかに風が吹くのが膚でわかった、下ろした髪が小さく揺れる。
昊に視線が向いていたせいか、珀明は、庭院に徐に現れた存在へと意識が向くのに少し遅れてしまった。けれども、驚いた素振りを見せなかったのは、やはりある程度は予測していたからなのだろう。
「・・・・・・出迎えとは、嬉しいことをしてくれる、心の友其の三」
「そんな訳あるか、時間を考えろ」
けれども、予想に反せずに現れた男の姿を自らの目で確認して、何処か安堵を覚えるのは勘違いではないのだろう。草坪(しばふ)を踏んで近寄ってくる藍龍蓮を見ながら、珀明は内心笑む。草坪がちょうど甃(いしだたみ)へと変わるところへ龍蓮が足を踏み入れると、珀明は視線だけで龍蓮の歩を止めた。
珀明の視線の意図を察した龍蓮は、頭の上の飾り全てを自ら手に取り、珀明へと手渡した。その行動に譲歩を見せた珀明は、ついでに龍蓮の髪紐も解いて、それ以上何も咎めることはせず、室内へと龍蓮を招き入れた。
一度消してしまった灯を点け、室内がほんのりと明るく染まる。けれども、先程の嫌悪感のようなものに襲われないのは、偏にこの傍らに佇んでいる男のせいなのだろうなと、珀明は小さく思った。嬉しいとか良かったとかそんなものよりも、悔しさが先立つのは何故か。
春とはいえ、夜はまだ幾分か冷える。睡衣だけでは流石に心許無いため、珀明は薄い肩衣を箪笥の抽斗から取り出すと、肩へ羽織る。すると、後ろから龍蓮の腕が伸びてきて、その肩布を引っ張るようにして、珀明を掻き抱くようにして腕の中へと収めた。後ろからの抱擁のせいで、少しも龍蓮の表情が窺えないことが、珀明には不安ではあったが、この行為自体は既に慣れてしまったものであった。
「・・・・・・随分と、無理をしていたようだ。痩せたな、珀明」
龍蓮の言葉は、軽く咎めるようなものではあったが、そこには確かな好意が込められているのが感じられた。
完全に背後を振り返ることは無理だが、首だけを動かして横を覗く。肩に龍蓮の長い蔵墨藍色の髪がいくらか垂れ掛けられているのがわかって、何故だかわからないが、珀明は意識的に小さく息を吐いた。
「構わない、あれは僕の仕事だった・・・他の誰のものでもない、ただ僕がしたかった」
吏部官として、そして、碧家の眷属として果たすべき仕事であった。家族を守るため、官吏としての矜持のため。万が一、それを途中で擲つことがあれば、自分は何のために国試を乗り越えて官吏になったのか、全てが水泡に帰してしまう。
そうかと、納得したような声色で返事をする龍蓮の反応に、やはり今回の騒動のことを識っているのかと、珀明は遠くを見遣りながら考えた。完全に納得してしまうには、聊か非常識な事項ではあるのだが、そこに藍龍蓮という存在を嵌め込んだだけですんなりと解決してしまうのは、最早滑稽と云っていいほど小気味良い解決の仕方ではあった。
「・・・・・・なぁ、龍蓮」
どうかしたかと云う返事が、すぐさま返ってきたが、そのまま後頭部辺りの髪に口付けられて、首筋にぞくりとした震えが走った。少々腹が立ったので、珀明は、肘で龍蓮の脇腹目掛けて攻撃を繰り出した。然程力を入れなかったせいもあるが、龍蓮に与えた衝撃は全くと云っていいほど強くない。
「お前、将来は・・・け、結婚とかする気あるのか、」
自分でも大概莫迦らしいと思いながら、珀明は背後の龍蓮にそう訊ねた。そこに秀麗と、と云う言葉を入れなかったのは、龍蓮の(と云うよりも藍家だろうか)求婚云々を識っていることを露見したくはないからであった。そんなことせずとも、聡い龍蓮のことだから察してしまうのではないかと云う不安も生じてはいたが、口にしてしまった以上悪足掻きは已めた。こんなことを聞いていること自体が悪足掻きになるのかもしれないと、そう思わなくもなかったが。
すると、龍蓮の小さく唸る声が聞こえて、珍しいと思う反面、即答しないことに一抹の不安が過ぎる。
「・・・ふむ、結婚と云うには少し違うだろうが、添い遂げたいと思う者はいる」
誰だ。そう、訊ねかけて、珀明はすぐに口を噤んだ。同時に、誰だ、と自分にも問い掛けながら考える。
自慢ではないが、龍蓮が好きだと云って憚らない存在を、自分たち心の友以外に、珀明は識らない。家族である龍蓮の兄弟とは添い遂げるという意味合いからして外れるだろう。となると、添い遂げたいと思うのは、やはり心の友筆頭であり、女性である秀麗なのだろうか。結局、そんな答えしか見出せず、早く何とか云えよと、理不尽でしかない文句が生まれた。
そんな珀明の心中をわかっているのかいないのか、龍蓮は、珀明の耳許で小さく珀明の名を囁いた。刹那、そこを中心に鳥肌が立ったときのようにぞくりとした感覚に見舞われ、珀明はその耳を手で塞ぎ、龍蓮の拘束から逃れた。漸く覗くことのできた龍蓮の表情は相変わらず飄飄として、そこに何の躊躇も感じられなかったせいで、呶鳴りつける勢いが掻き消えた。唯でさえ今は夜なのだから、恐らくこれは正しい反応なのだけれど。
「・・・珀、私には夢がある、」
ゆめ、と、龍蓮の言葉を繰り返すように、珀明は呟く。そして今度こそ、それはどんな夢かと、訊ねた。
「秀麗と影月と珀明と、私が、揃って昇仙して、ずっと一緒に暮らす夢だ」
宙を覆うように存在する空気と、太陽の恩恵である光と、そして友の愛さえ残っていれば、きっと自分は生きていられるのだと、龍蓮は思う。
「・・・・・・な、に」
衒いもなく笑んで答えた龍蓮を、珀明は半ば茫然と見ることしかできなかった。軽く眩暈も覚えたかもしれない。そのせいで、伸びてくる龍蓮の右腕に反応することもできず、頬に触れてくるその指を黙って甘受した。その所作がひどく優しいものであったから、身体が痺れたように動かない。
「珀たちと出逢って、夢らしい夢と云うものを持った・・・私は、それをしあわせだと思う」
何だそれは、じゃあつまり添い遂げたいと云う相手は―――――。
「・・・っ、」
莫迦だ、と云おうとする寸前で、珀明は言葉を飲み込んだ。果たして、莫迦なのは自分か龍蓮かどちらなのかわからなくなったからだ。そんな叶うなんて考えている方が報われない夢を抱く男か、明確な事実も識らないで無駄に憂慮していた男か。
已めてくれ、珀明は心の中で云い放った。叶えることもできない本気の夢を語られて、平気で居られるほど、珀明は龍蓮という存在を軽く見ているわけではなかった。況して、そこには自分も含まれているのだから、尚のこと珀明は頭を抱えたい衝動に駆られた。どうせなら、生涯識らぬままでいたかった。
「珀・・・人の夢は一概にしてはかないものだと相場が決まっている、」
訴えるような珀明の視線の意図を余すことなく察したかのように、龍蓮は小さく答えた。頬に触れていた手は、いつの間にか珀明を宥めるような仕種で横髪を掬う。言葉の生じない空間で、その行為がやけにさらさらと音を発しているように、耳に響いた。
そうして、ああこいつは本当に聡いやつだなと、珀明はぼんやりと感じた。悲しいとも感じた。それと同じくらい、愛しさが込み上げてくる。自分よりも大きく逞しい体躯をしている癖に、どうしてか、珀明は時折、抱き締めて慰めたい衝動に駆られるのだ。その理由を幾度となく考えたが、結局途中で放棄してしまうのだけれど。
「叶う夢ならば、初めから抱かないと思わないか、珀明」
龍蓮の言葉に、珀明は小さく肯いた。同意するに値する発言であったからだ。
珀明にも、李絳攸のような立派な人物になるという一つの目標がある。けれども、それはけして夢ではなく、自分の実力や立場を鑒みた上で、実現可能だと自負しているからこその目標であった。夢とは又、性質が異なり、そこに向かって日々邁進する努力も現実的ではある。
「・・・つまるところ、ずっと一緒にいたいだけだ、心の友よ」
簡単に云ってくれるな、と、珀明は髪に触れてくる龍蓮の手を取る。屋外にいたせいか、珀明の手掌よりも幾分か冷えていて、気紛れに熱を分け与える心算で包むように握った。
「世の中は、簡単なことほど難しいと、そう思うときがある、」
成程、真理だ。
珀明は握っていた手を放すと、今度は反対側の手を取る。先程よりも冷えていると思わなかったのは、自分の手掌から熱がいくらか奪われたせいだ。
龍蓮の言葉は、朝廷の一部分に携わる身として、身に染みて感じるものであった。簡単な事象すらも、これまでかと云うほど入り組ませて、複雑化、細分化して、それを通だと認識してしまう風潮が屡見られる。それも一つの形式と云えば正しいのだけれど、堅苦しく珠守めいたものだと感じることもある。保守的と云うのが適当かもしれない。
「私は、珀も秀麗も影月も愛しているから、私の夢はとても手の届かない困難な場所にあるのだ、」
普段よりもいくらか饒舌な龍蓮を見遣ると、苦笑ともとれる笑みを浮かべていた(らしくないことに)。そうして、ああこの男の夢は水月のようだと感じて、居た堪れなくなった。それほど、はかない。
「猿猴捉月」とは、猿が井戸に映った月を取ろうとして水に溺れたという故事からくる言葉ではあるが、そのように、龍蓮がその夢のため、身を滅ぼすような真似をするのではないかと云う思いと、賢い男なのだからそんな真似は恐らくすまいと云う思いが交錯して、複雑な心境に陥る。
けれども、結局のところ、自分たちをこよなく愛する目の前の男は、何よりもまず友の意思を優先し、そんな物云いが、珀明をやり場のない思いへと陥れるのだ。果報者だと思う、過ぎた情かもしれないとも思う。
「・・・だが、今、僕はこうしてお前の手を捉えているだろう、」
すると、龍蓮が僅かに泣き出しそうな顏で笑んだ。泣き出しそうに、と云うのは、自分の錯覚だったのかもしれないけれど、仮にでも、自分の目にそう映ったのならば、少しは龍蓮に対してそのような要素を抱いていたのだろうと、珀明は思う。
「・・・一緒に、」
「ああ、今夜は、一緒にいてやるから、今はそれで妥協してくれ、龍蓮」
そう云うと、珀明は、今度こそ、正面から抱き締められた。それを肯定の返事だと受け取る。
この行為は、いつだって言葉よりも如実に龍蓮の思いを表していて、拒むのが難しい。龍蓮が後頭部に手を廻し、髪を梳くように撫でる所作を、瞼を下ろして受け入れる。この髪を光のようだと云う龍蓮は、いつも穏やかな顏をしていたと、珀明は思いに耽る。
「・・・あたたかいな」
小さく囁くように零れた言葉ではあったけれど、密着する身体のお蔭で、それは珀明の耳へと届いた。触れる吐息がこそばゆくて、少し身を捩った。
不覚にも、絆されたことを自覚している珀明は、それでも甘んじて龍蓮の背へと腕を廻し、淡く微笑みながら、目の前の存在を、今度は確かに両手で捉えた。
了
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