或る年の春、ちょうど山茱萸の花が開花した頃だっただろうか。
 吾亦紅の苗を手に入れた少年は、その苗を懐に大事に抱え、自邸の庭院へと小走りに向かっていった。
 少年は奇麗な衣を身に纏っており、それが彼の家の裕福さを窺わせた。癖のある豊かな髪は丁寧に束ねられて、一つに纏められている。そんな年相応の嬉しそうな顏を浮かべて先を急ぐ少年を、家人たちは微笑ましそうに見守っていた。
 庭院に着くと、少年は軽く乱れた息を整えるように、歩調を緩めた。庭院に、日の当たる空いた空間を見出し、その場へと蹲る。賢い少年は自らが着る衣の価値を理解しているのだろう、裾が地面に触れないように注意し、ゆったりとした余裕のある袖も軽く捲った。
 そして、庭院に来る途中に調達した小さな耕具で土を耕しながら掘り始めた。
 適度な穴ができたと納得した少年は、まだそれだけでは到底花の名を言い当てることができないだろう、吾亦紅の苗を穴に沈め、土で埋めるようにして植えた。
 「よし」少年は、満足し頷いた。
 耕具を地面に置くと、少年は徐に立ち上がる。苗から少し距離をとると、そこから眺める。又頷く。
 次いで、庭院を眺めた。季節の折々に庭院を飾る樹木や花が、他にも植えられている。今は、山茱萸だけではなく、水仙や木瓜も盛りだ。それらに較べたら、この苗は、未だ存在の薄い貧相な、ただの草でしかないのかもしれない。けれども、先人が人の目には見えない秋のおとないを風の音に聞いたように、この吾亦紅の花が、夏の終わりと共に秋のおとないを教えてくれる日もきっと来るだろう。
 ふと、自分の名を呼ぶ声が後ろから聞こえ、少年は振り返った。誰かが近付いてくる―――母だ。
 「・・・・・・まあ、戴いた吾亦紅を植えたのですか、上手ね。秋の楽しみが増えて嬉しいわ、」
 少年の母は、愛おしげな所作で少年の頭を撫ぜた。少年は、嬉しくて目を眇めた。
 「でも、わざわざ貴方がせずとも、誰かに任せればよかったでしょうに・・・・・・さあ、汚れを落として、服も替えましょうね。いらっしゃい、」
 「はい」少年は、笑顔の母に笑みを返す。
 けれども、嬉しいと云う感情はすぐに凋んでいった。上手ねと、褒められたのに。
 屋内へと少年をいざなう母はいつものように優しかったけれど、いつものように少年の手を牽いてはくれなかった。その事実がやけに胸に重く沈んだ。
 初めて自分の手で植えた花の苗と、置きっ放しにしたままの耕具が胸に引っ掛かり、少年は振り返る。けれども、催促する母の声がして、再びその後に随った。



 其の年の秋、少年の植えた吾亦紅は、静かに秋の訪れを告げた。















 欧陽玉は、酒肴を片手に自邸の廻廊を歩いていた。
 既にいくらか酒の入った身体ではあったが、自他共に認める酒豪である玉には大した問題ではない。足取りは軽く、その歩調は典雅を漂わせる。それ自体は玉にとって常のことであったため、全く苦ではない。衆人環視では当然のことだが、周囲に人がいなくても何ら変わらないからだ。
 秋の夜が殊更長いように思われるのは、気のせいではないのだろうと、玉は昊を仰ぐ。暗い昊だ。露草を絞った草汁のその色よりも更に濃い闇だ。何処か陰鬱さも感じる。その昊に座するのは、満月にはまだ数日程足りないが、上弦よりは幾分満ちた月である。
 残暑が過ぎ秋になったせいで、夜ともなれば聊か涼しい。一人で飲んでいた酒のお蔭で、身体は仄かに熱を帯びてはいるが、それだけではやや心許無い。自室に戻ったら、まずは肩衣を羽織ろうと心積もり、玉は歩調を速めた。



 「お待たせしました」
 自室に戻り、闔(とびら)を開けてすぐに視界に収まったのは、己の上司である管飛翔であった。玉の言葉に、おう、とだけ簡単に返して、飛翔は手にしていた杯をそのまま呷った。
 玉は、淡く燈る灯火と、放たれた状態の庭院に續く闔から注ぐ月明かりを頼りにして、飛翔の傍らへと歩み寄る。予め用意されていた椅子に腰を下ろす前に、玉は手にしていた酒肴を卓子の上に置き、室の片隅に配われた箪笥の抽斗から肩衣を取り出し、肩へと掛ける。
 「おい、来いよ」
 背後から掛けられた言葉に、玉は小さく嘆息し、示された椅子へと腰掛けた。理由は分からないが、互いの椅子の位置は卓子を挟むことなく同じ側に並べられていて、玉が腰を下ろすと、ちょうど飛翔が玉の左側にいる状態となる。この邸も室も椅子も酒も酒肴も、全て玉の物ではあるが、このささやかな酒宴は飛翔が主催したもので、椅子と卓子の配置も飛翔が決めていた。
 完全に放たれた闔から覗くのは、玉の自慢の一つとも云える庭院である。
 吾亦紅、菊、茜、女郎花、葛花、紫苑、秋海棠、萩の花、藤袴、撫子。幾分盛りを過ぎた花、真っ盛りの花、今か今かと盛りを待つ花、蕾が開く時期は聊か疎らではあるが、秋を彩る花を、それも自らの庭院を鮮やかに飾る花を、玉は殊に愛していた。
 それらの中でも、庭に聳える一木を、玉はとりわけ気に入っていた。濃い緑の間から顔を覗かせる、金色の小さな花。昼夜問わず、人を誘う香りを放つ金木犀は、盛りのときだけでなく、散った後でさえ玉を楽しませる。雨風で地面に散った、ちいさな数多の花は、まるで黄金色の雪が降り積もったかのようで、儚さの奥に惹き付けるものを感じるからだ。
 今も、金木犀は確かに香っている。時折、鼻腔を擽る香りに、玉は僅かに酔い痴れる。
 秋に木々が紅葉する様を、又金木犀の花を見て、玉は毎年のように、豊饒の色をそこに垣間見る。
 「・・・何故、この配置なのです、」
 「あ?何だよ、不満でもあるのか、」
 「いえ、そう云う訳ではないのですが・・・・・・しかし、ここからでは月見酒にはならないでしょう。ほら、この通り、飛び出した屋頂(やね)で月は隠れてしまっている」
 肩衣が落ちないように左手で軽く押さえつつ、玉は闔の外に見える屋頂を指差す。やはり月は見えない。
 「いいんだよ、これで」
 「・・・せめて、明るい時刻であったならば、秋の七種花(ななくさのはな)もご覧になれたでしょうに、」
 月見も悪くはないが、その折にあった花を愛でるのもなかなか趣深い。暗くなった庭院を眺め、玉はちいさく息を吐いた。春に夜桜を眺めることはあるが、それは飽く迄桜が見えるところにあるからだ。玉の邸も例外ではない。秋の植物は、玉の室から一望できる場所に全てあるわけではない、庭院に出て見る必要がある。喬木ならまだしも、灌木は視界に映らないし、花もどうしたって低すぎる。
 (萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花、又藤袴、朝貌の花・・・・・・)
 それらの花を、果たしてこの上司が愛でることができるかどうか、確かな確信も持てない(寧ろ無理だ)、けれども、自分が見て、愛しいと思う世界を(それが仮令どれだけちいさくても)、少しでも共有したいと感じているのは、確かだ。少し押し付けがましいかもしれないが、云わなければわからない男なのも承知しているので、玉は敢えて口にはしない。
 「七種花なんて、全部わかるわけないだろ、俺が、」
 「ええ、まあ、其の通りですね」
 「即答で肯定するな」飛翔が小さく舌打ちをする。
 「・・・・・・ああ、手酌はいけませんよ。折角相手のいる酒宴なのですから、」
 少し不機嫌を露わにした飛翔が、半ば投遣りにと云った所作で酒瓶を傾けて杯に酒を注ごうとするのを止めて、玉は瓶を奪った。そして、軽く宥めるような仕種で、飛翔の杯を満たす。すると、それに機嫌を良くしたのか、飛翔の眉間の皺が少なくなっていく様子を見て、玉は苦笑する。
 とくとく。液体の音が響く。
 すると、今度は飛翔が玉の手から酒瓶を取り、用意されていた玉の分の杯へと酒を注いだ。
 とくとく。再び響く音は、涼しげな音だった。
 満たされた杯を、軽く飛翔の方へと寄せる仕種をして、玉は乾杯の意を示した。すると、同じ動作が返ってくる。この行為は決まりきったことではないが、たまに二人が催すささやかな酒宴の場で、互いの機嫌が良いと行われる。こういったときの飛翔は、大抵飲み方が大人しい。飽く迄比較的、の話ではあるが。
 「―――――吾亦紅、をご存じですか、」
 玉は、自分が少し浮かれているのを自覚しているせいもあったが、ふと思いついたことを、何の脈絡もなく無意識に口にしていた。
 懐かしい記憶が蘇ってくる。自分がまだ幼い少年の頃の、他愛無い出来事だ。
 「・・・・・・ああ、紅紫色の丸っこい、団子みたいな花だろ」
 「貴方は・・・もう少し表現豊かに美しく言い表せないのですか」
 「うるせえ」飛翔は、軽い調子で悪態を吐く。
 けれども、秋の七種花のときのように、知らないと即答されるよりはまだましだ。知らないと返ってくるかもしれないと、少しだけ勘繰っていた玉は小さく笑って、其の通りですよと、飛翔の答えを百歩程譲って肯定した。
 「・・・花と云っても、大抵の人が花弁だと思っている紅紫色の部分は萼(がく)で・・・・・・いえ、そんなことはどうでもいいのです・・・・・・そう、ここの庭院にも咲いているのですよ、」
 玉は、庭院のある一角を指で示す。勿論、暗くて見えないことは承知だった。それでも、目を瞑れば、脳裡に焼付けられたその光景を、玉はありありと思い浮かべることができた。
 枝分かれする吾亦紅の細長い茎が、風に揺れて不安定にゆらゆらと揺れる、玉はそれが好きだった。
 「好きなのか、」と尋ねられて、
 「ええ」好きですと、玉は言葉を繋げて素直に肯定する。自分でも、顏に自然と笑みが浮かぶのがわかり、余計にその笑みは深くなった。
 玉の脳裡では、未だに吾亦紅が揺れていた。
 空になった杯に、再び酒が注がれる。なみなみと。何事にも大雑把に見えるが、案外気の利く人だと感心しながら、玉は杯を呷る。室に戻ってきてからまだ二杯目だ、申し訳程度の量ですらない。だが、何処かふわふわとした感覚に襲われる。
 「・・・・・・・・・・・・昔の話を、しても宜しいですか、」
 飛翔は横に座る玉に、視線だけを寄こしながら、小皿の酒肴を摘む。
 その無言を肯定として受け取り、玉は口を開いた。
 「・・・私には、それが良い思い出なのか、良くない思い出なのかもわかりません。随分と昔の話ですから・・・そうですね、少なくとも十五年は遡らなければならないでしょう」
 そこで一旦言葉を切ると、玉は肩衣を掛け直した。その手付きは、いつも思うことだが、何処か女性めいていて、飛翔は眺める視線を外さなかった。
 「私は、吾亦紅の花の苗を戴きました・・・・・・いえ、誰に戴いたのかは覚えていません、繰り返しますが、随分と前のことですから。幼い私は、それがとても嬉しくて、自分で庭院に植えようと思いました・・・勿論、ここの庭院ではなく―――碧州に在る欧陽家の庭院です。ここよりももっと広い庭院です、春でしたので、山茱萸や水仙や・・・そう、木瓜も咲いていました・・・桜には少し早く、梅が終わる頃です、」
 一つ一つを思い出すように瞼を下ろし、呟いていく。
 「漸く植え終わると、母がやってきました・・・上手だと褒めて下さいました。汚れたから、服を着替えようと屋内に入ろうと云われました・・・それが嬉しかった、でも、哀しかった、」
 「何故、」飛翔が言葉を挟ませる、当然の疑問だなと承知して、玉は返答する。
 「・・・母は、優しい笑顔をしていました。けれども、いつもしてくれたように私の手を牽いては下さらなかった・・・それがとても哀しかった。褒められて、きっとそれは本心からの言葉だったと信じて疑いませんが、でも、手を繋いで下さらなかったのは、土に汚れた私を汚いと思ったからでしょう、」
 玉は溜息を吐いた、意識しなければ気付かないほど、小さく、細く、呼吸よりも弱く。
 この思い出の中の母は優しかった、秋に開花した吾亦紅を褒めてくれた。それでも、哀しいと感じた自分がいる、それは、母のせいではなく自分のせいであることも、玉は重々承知していた。
 「・・・誰かに任せればよかったのに、と、母はそうとも云いました、だから余計にそう感じたのでしょう」
 苦笑する、もしかしたら、僅かに嘲笑も含まれているかもしれないと思い、玉はゆったりとした余裕のある睡衣の袖で口許を覆った。
 不意に、飛翔の右腕が玉へと伸ばされる。下ろされた玉の髪を一総掴むと、拇指がそのまま頬へと触れてきた。触れる手掌から伝わる熱は、自分のそれよりも幾分か高い(酒のせいだろうか)。玉は、僅かにその手掌に擦り寄ってみせた。
 「・・・ここの吾亦紅も、私が植えました・・・でも、吾亦紅だけです、それが何故なのか、私にもわかりません・・・けれど、今年も吾亦紅は見事に咲いています」
 昊が明るかったならば、きっと無理矢理にでも飛翔を引っ張って、庭院を一緒に散策しただろう。玉は、左横に座る飛翔の方に身体だけ向ける。すると、頬に触れる手掌の面積が広がった。
 「・・・意外だ、」それだけを呟いた飛翔は、頬に触れる手を項へと移動させる。そして、暫くして離れていった。
 「何が、でしょう、」
 玉は、離れていく熱を、少し惜しむように言葉を絞り出した。自然と、視線が、飛翔の指が描く軌跡を追う。
 「お前は、そう云うこと一切しないと思ってたんだよ。土弄りだなんて、お前の自慢の服や沓が汚れるだけだろ。手も汚れる。奇麗で美しいものが大好きなお前からすれば、そう云ったことは汚いものに分類されるんじゃねぇのか、」
 日頃の玉を知るものならば、殆どの者がそう考えても可笑しくはない、寧ろ自然だとも云える。玉も、そんな飛翔の考えを理解しているからこそ、それを侮辱だとも揶揄だとも受け取らない。ただ、笑みを浮かべながら言葉を返す。
 「そんなことはありませんよ・・・それに、この庭院の植物全部を植えるなんて手間のかかることを私がするのは無茶です、そうでしょう?それに、樹木や花をより美しく活かすためには、職人に任せるのが一番です。工部尚書が何を仰います、」
 玉は、僅かに言葉を詰まらせた飛翔を見て、更に微笑む。そして、飛翔の空いた杯に酒を注ぎ、飲むように勧めた。すぐさま乾された杯に機嫌を良くした玉は、再び杯を潤す。
 「・・・まあ、確かに、職人が丹精込めて織った衣をわざわざ汚してしまうのは忍びないですが、汚いなどとは思いません」
 「そうか」そう云うと、飛翔は、それ以上追及してこなかった。そして、暫くしてもう一度「そうか」と呟いた。追及してこない代わりに、空になった玉の杯に酒を湛える。
 今宵は、いつもより酒の進みが遅い。やけに静かだ。
 とくとくとく。酒の注がれる音が響く、心地好い音が響く。
 「・・・ここの庭院を、奇麗だとは思いませんか、美しいと思いませんか。今は夜で窺えませんが、金木犀はとても美しく咲いて、香っています。この全ては貴方の云う通り、土弄りから始まります・・・・・・奇麗なものをつくるための汚れてしまう行為を、私は汚いとは思いません。工部尚書として、様々な芸術品や建築物をつくる職人たちをご覧になって来た貴方が、わからないはずはないでしょう、」
 壮大な建築物も、豪奢で緻密な石細工も、達筆な墨書も、患者を救おうとする医師の医療行為さえも、どれ一つとして奇麗なものだけでは到底為し得ない。汗を掻くかもしれない、手や服が汚れるかもしれない、怪我を負うかもしれない。玉は、碧家の分家に名を列ねる者として、又、工部侍郎として、それらを近くで実感してきた。
 「ああ、そうだな・・・・・・わからなくもない、」
 少し婉曲した肯定を示す飛翔の返事を受けて、玉は笑んでみせる。
 「素直じゃありませんね」
 「お前には負けるけどな」
 にたりと、お世辞にも良いとは云えない笑みを浮かべた飛翔は、再び腕を玉へと伸ばす。その両手は、玉の肩に掛けられた肩衣へと触れた、そして、軽く引っ張るようにして、玉を引き寄せる。玉は、椅子から腰を浮かせて椅子に腰掛ける飛翔の傍らへ立ち上がった。
 拒絶と云う概念が生じなかったのは、きっと、酔っているからだと、玉はぼんやりと考えた。その割に、やけに頭は冴えて、蹌踉めく(よろめく)こともない自分には、苦笑せざるを得ない。
 首の後ろを掴まれ、屈むような姿勢をとらされる。玉の口から文句が零れる前に、口付けられ、抗議の言葉は掻き消えた。時折、顔同士が僅かに離れたときに見える、目を伏せた表情が好きだと思う。暫くすると、薄く開いた唇を割るようにして、飛翔の舌が口腔内に侵入してくる。
 「・・・ん、」それでも、玉はその行為を拒まずに受け入れる。酒の匂いがしたが、それが果たして自分のものなのか、飛翔のものなのか判断しかね、結局考えることを放棄する。
 しかし、腰を曲げた状態が聊か辛いので、玉は遠慮無しに飛翔の膝の上に腰掛けた。それでも、玉の頭の位置の方が飛翔よりも上にあるが、先程よりは大分ましになった。やり場のない手は、飛翔の服を掴むことで居場所を持つ。
 今度は自らが積極的に舌を絡めてゆく。玉は、嚥下できなかった唾液が顎を伝わってゆくのを感じ、僅かに不快感を覚えたが、舌から痺れるような感覚や口腔内を侵される感覚に覆われて、それもいつの間にか消えていた。寧ろ、与えられる快感を追うようにして、只管(ひたすら)貪り合う。
 「・・・ふ・・・ぅ・・・・・・んっ、」
 漸く解放された頃には、すっかり呼吸が乱れ、頬が熱かった。玉は飛翔の肩に額を当て、顏を伏せた。見られたくないのではなく、頭が重く感じられ、上手く支えられなかったからだ。云い訳染みた言葉しか思い浮かばない。自分も大概素直じゃないと感じたが、玉はそんな思考をすぐに遮った。
 すると、顏を伏せたことで露わになっている首筋へと口付けを落とされ、玉はやや過敏に震えた。数度、続けて軽く唇で触れられて、耐えられなくなった玉は、飛翔の頬に手掌を押し当てて退けた。
 「やめて下さい」初めて抗議の言葉を吐けば、
 「厭だ」即答で拒否された。
 折角、いつになく落ち着いた雰囲気の中の酒宴だというのに。玉は、軽く飛翔を睨んだ。ゆったりとした速さで飲んでいたせいで、互いに物足りないと云っても過言ではない。玉は、卓子の上にあるいくつかの酒瓶(二本は倒れていた)と空になった二つの杯をちらりと見遣った。
 飛翔は、玉の抗議を聞き流すと、頤に口付け、次いで喉元へと下がっていく。睡衣の掛衿に手を伸ばし、軽く掴むと襟を抜き、露わになった鎖骨の下部にも吸い付く。
 「・・・っ、」
 この莫迦親爺、と、自分にもう少し理性と云うものが欠如していたならば、そう罵っていただろうなと、玉は感じた。このまま飛翔のいいように流されていくのは癪な気がして、手掌で飛翔の頬を両側から挟むと、そのまま首を擡げた。今度は、自ら接吻する。軽く触れたそれは、飛翔の唇からあっさりと離れていった。
 「・・・答えを、戴いていません。何故、今宵は月見をなさらなかったのです、その癖、こうして闔は開いて・・・何を考えていらっしゃるのです、」
 新春からは梅、桃、桜を、初夏は藤を酒肴に花見、夏は蛍を酒肴に、秋には紅葉を酒肴に、又月見酒、冬は雪見酒と、季節に見合った嗜み方で、飛翔が酒を楽しむことを、玉はこれまでそれに付き合ってきた経験から熟知していた。確かに、今宵は満月ではないが、月見酒が満月を対象にしているという定義はない。今日も当然の夜に月見酒だと信じていた玉には、少々解せない部分があった。
 「・・・・・・まあ、確かに、月見酒のつもりだったさ、」
 面倒臭いと云った表情をしてはいたが、飛翔は漸く(観念したように)言葉を紡ぎ始めた。
 「では何故、」玉は、再び短く問い掛けた。
 「あー・・・お前がいなくなって、準備のつもりで闔を開いたらさ、こう、香ってきた、」
 何がと、玉は口を挿まなかった。漠然と、その後に續く科白を察していたからだろう、そして、それは恐らく玉の誤謬ではない。
 「金木犀だろ、あの香り」飛翔は、闔の外を指差した。
 「ええ」玉は、淀みなく答る。
 金木犀は、室から庭院へと左に出て、少ししたところに数本植わっている。戦ぐ(そよぐ)風のせいか、時折室内にまで甘い香りを運んできていた。その香りは、春の沈丁花や夏の梔子にも劣らない。
 「・・・だから、それだけでいいと思った」
 さすがにもう殆どわからないけどな、酒の匂いで。そう付け加えて、飛翔は苦笑を洩らした。
 確かに、室に戻ってきたときに較べれば、飲んだ酒の匂いが嗅覚を鈍らせ、金木犀の香りが薄らいでいると、玉は飛翔の言葉に納得した。けれども、ほんの一瞬、波のように強弱をつけ、金木犀が淡く香るときもあった。
 「・・・お前みたいだよな、」
 「はい?」自分らしくなく、変な声をあげてしまったと後悔して、玉は袖で口許を隠す。
 「花の色とか、お前に似合う。それに、昼も夜も強い香り放って、自己主張激しくて、周りを誘うんだよ―――な、お前みたいだろ、」
 そう云い放って、飛翔は、かかかと笑った。
 「誘っている覚えは、全くありません」しかし、自己主張云々は、多少どころかかなり身に覚えがあるので否定はしない。否定したところで、更に否定されることは目に見えている。
 「いや、誘ってるぞ、俺を、」
 「・・・・・・・・・莫迦ですか、貴方は」
 花に譬えられること自体は厭ではない、光栄であると、玉は思う。だが、飛翔の今の譬えでは、どうしてもそう感じ取ることはできない、多少の揶揄を含んでいるからだろう。好い雰囲気で飲んでいたと云うのに、珍しくまともに情緒深いことを口にしたと思っていたのに、結局これでは、ただの酔払った親爺と同等である。
 玉は、僅かに不機嫌を露わにして、眉を顰める。だが、そんな玉の機嫌をとるように、飛翔は玉の腰に両腕を廻して軽く抱き寄せる。
 「顏、紅いぞ」
 そう指摘してくる飛翔から、玉は、隠すように顏を背ける。見えないが、飛翔の笑みが深くなるのがわかった。悔しいと、思った。
 「われも、また、くれない・・・」玉は、小さく、自分にのみ聞こえるように呟いた。
 「なんだ、」空気の振動で、玉が何か云ったことに気が付いたのだろう、飛翔が疑問を示してきたが、「なんでもありません」と答えて、やはり顏はそっぽを向いていた。
 「・・・答えたから、もういいだろ。好い加減させろよ」
 「貴方は、まず情緒と云うものを学んできなさい」
 それをこの上司に求めること自体が間違っているのかもしれないと、玉は、自分の発言を悔やまないでもなかったが、前言は撤回できないので、そのままにしておく。
 「・・・お酒は、もう宜しいのですか、」
 「今は、お前を優先、酒はいつでも飲める、」
 (こんなことで優先なんてしてくれなくてもいいのですが、)予想外にも、即答された。その発言は、とても遠慮して欲しいものであったのに、上手い具合に玉の心を擽る。嬉しいとか悔しいとかそう云った感情を湧かせる。本当に勘弁して欲しい。恥ずかしさの余り、思い切り突き飛ばしてしまわない内に。
 「明日、庭院を、一緒に散策して下さいますか、」
 「・・・なんでだよ、」急に話題を転換させた玉に、飛翔は訝しげな瞳を向けてくる。
 「秋の七種花、教えて差し上げます・・・私の植えた吾亦紅も、見て下さい」
 庭院の一角に植えた吾亦紅が、玉の脳裡を掠める。そして、最近は、何だかんだ忙しくて(主に上司のせいで)、庭院をゆっくり眺めたり、散策したりすることもなかったことを思い出す。休暇には打って付けの時間だろう、序ででも、飛翔が少しでも教養を身につけてくれれば尚良い、玉は笑みを浮かべてどうですか、と飛翔に問う。
 実のところ、自分の愛しいと思うものを、世界を、仮令それが些細なものでしかなくても、飛翔と共有していたいだけなのだと、玉は思う。単純なものだ。間違いなく、飛翔に感化されている。
 「わかったよ」玉の言葉に、何か意味を汲み取った飛翔は、賛同を示す。
 そして、膝の上の玉を立ち上がらせると、そのまま腕を牽いて臥牀へと誘う。散策の誘いに満足のゆく答えが返ってきたのが良かったのだろう、玉は拒絶をみせなかった。
 ふわりと、軽い浮遊感に見舞われると、玉の身体はそのまま臥牀へと横たわった。横たわらせられた衝撃で、片方の沓が脱げた。臥牀の縁に合わせるように膝節を折っているため、足が床に触れず、少し心許無い。玉は、足を揺らして、もう片方の沓も無造作に脱ぎ捨てた。そのせいで、意識が足へと向かい、冷えているな、と感じた。
 先程までは、酒を飲んでいたせいで気にも留めてはいなかったが、やはり闔を開放したままでは寒い。肌蹴させられた衿元から冷気が入り込んで粟肌が立つ。秋も闌(たけなわ)だ。
 だが、やおら触れてきた飛翔の唇が、玉に熱を与える。やはり酒の匂いがする、どちらのものか考えるよりも早く、口付けが深いものとなり、玉を追い詰めてゆく。できることなら、放たれた闔にすら意識が向かないほど、溺れさせて欲しいと感じた。金木犀の花のようだと宣った飛翔の言葉が、玉の頭を過ぎる。
 「・・・っん、ぅ・・・」飛翔の衣に縋る握力が増すと、飛翔は玉の口を解放した。
 「っ・・・山茶花が咲く頃も、酒の席を設けたいものです・・・」
 顏を中心に、胸元辺りまでがやけに火照っている。濡れた唇を小さく動かして、玉は、飛翔に言葉を向けた。
 「山茶花は晩秋に咲きます、秋を告げる吾亦紅のように、冬の訪れを告げる花です」
 家の庭院に咲く山茶花は白色をしているのです。椿と違って、花弁が一枚一枚ひらひらと散ってゆくので、散り際もとても素敵ですよ。まっさらなので、地面に散ったら雪のようかもしれませんね。と、玉は、己の真上にいる飛翔にその情景を説明するように囁く。
 「酒に誘ってくれるのは嬉しいけどよ、できればこっちに集中しろ」
 「・・・もう少し、上手に誘ってみたら如何です、」
 だから少しでも情緒とか雰囲気を察するとか趣とかを学んで欲しいのに、さすがに今はそこまでは口にしないけれど、玉は切実に感じた(それはもう切実に)。人間とは(自分も含めて)即物的な生き物でもあるが、けしてそれだけではないだろうに。
 「好きだ、」
 「・・・・・・・・・わ、わかりやすくて、結構ですね(やはり即物的な部分は排せていませんが)」
 好きだ、の後に、だからやらせろ、という言葉が付加されているようにしか聞こえない。
 「好きだ、」再び繰り返す。
 「もう結構ですから、」
 何故か、飛翔の顏を直視できずに、玉は視線だけを逸らせる。
 その間にも、飛翔は顏を玉の胸元へ埋めると、更に睡衣を肌蹴させていった。露わになる肌に冷気が纏わりついてくるが、飛翔の手掌や唇が触れると、そこを中心に熱が高まる。それが、酷く愛おしい。
 「・・・・・・私も、です、」玉は、暫くの間逡巡していたが、決意して口を開いた。そして、両腕で飛翔の頭を掻き抱くようにして擦り寄る。肩から落ちて、上膊中部から前膊にかけて纏わりつく袖が、肘関節の動きを制限して煩わしい。
 「私も、好きです」
 その瞬間、胸の辺りで顏を伏せた飛翔が笑う。皮膚に触れた吐息でわかった。
 再び始まった行為を受け入れながら、玉は明日観るだろう吾亦紅を思い描いた。切なさを孕んでいた吾亦紅の思い出に、明日、あたたかいそれが増やされるだろう。いくつか手折って活けるのもいいかもしれない。
 そして二人は腕を絡めさせ、臥牀に沈んでゆく。溺れているようだ、と感じた。
 玉は、己の鼻腔を金木犀が優しく擽ったような気がして、瞼を閉じた。





我も恋う  了