かれ感情飢ゑてゐるhttp://xym.nobody.jp/



杯(さかずき)になみなみと注がれた最後の一杯の酒を勢いよく煽ると、欧陽玉は、目の前にだらしなく坐って居る酩酊状態の上司を睨む。この男と酒を嗜むときは、常に美酒ですら湯水のように扱われ消えてゆくのだから、殊更一流の杜氏には申し訳ないという気持ちが先立つ。

そう云えばと、飛翔の手の中にある杯を見遣る。それは以前、玉が飛翔に贈った逸品であった。果たして、彼がその美術的価値を理解しているのか否かは、この際諦めて捨て置くとしても、未だにそれを割らずに愛用してくれているのだと思うと、何処か照れ臭さも覚える。しかし、何かしら価値のある物にしてもその中でもとりわけ酒だが、飛翔にとっては、使ってこそ、又呑んでこそ価値があるという主張、そしてそれに違わぬ行動は、最早遖れ(あっぱれ)であるとしか云いようがない。恐らく、仮にその杯を誤って壊してしまうようなことがあったとしても、形あるものはいずれ壊れるのだと宣うのだろうと、玉は考える、それでも構わないのだが。

「…このような権力争いの著しい中、そのように無防備な姿を晒すなんて、貴方は本当に凡愚ですか、」

うるせぇと返ってくる乱暴な言葉は、既に呂律が危うい。あれだけ呑んで意識を保ち、且つ、発語ができるのなら上等だろう。それに、この上司は、一応は自分の上司であるだけのことはあり、歩行を可能にするくらいの余裕は、いつも大抵は殘している。

「一応、貴方は六部の尚書だということをゆめゆめ忘れなさらないように。その席を狙う輩に、いつ命を落とされるかわかったものではありません」

この朝廷では、いつ、誰が、何処で敵となり、牙を剥いてくるかも知れぬような処である。まさか、それを飛翔が知らぬことはないと、玉自身もわかってはいるが、普段からこの状態ではそれを疑ってしまいたくもなるというものだ。

「…そうかもな、」

そう云い、飛翔は微笑する、それも意地の悪いそれで。緩慢な所作がいっそ憎らしいほどに、杯を卓子の上へと下ろすと、やはりだるそうに椅子の手摺へと肘を突く。まるで他人事のように言葉を返してくる飛翔の態度は、玉に沸沸とした怒りすら与えてくる。

「……もっと、自覚なさい!」

現実、いつ起こり得るかも知れぬことを持ち出すのは、確かにあまりにも無意味で、莫迦らしいことなのかもしれないと、玉は後になって悔む。しかし、これではあまりにもすくわれない、それはきっと、飛翔ではなく自分が。畢竟、飛翔は自分の上司だ。飛翔が上司でないならば、又その逆でも、少なからず、自分の中には空虚が生まれるのだろうと、玉は自覚していた、哀しいほどには。いつだって、いいようにこの上司に扱われてしまう身ではあるのだけれど、それはそれでその現実を突き放すこともないくらいには甘受できるのだ。

「物足りねぇ、」
「…酒ですか、肴ですか、」

玉の問いを違うと軽く一蹴すると飛翔は小さく口端を吊り上げて、刺激だ、と嘯く。それを耳にした玉は、返す言葉が見つからなかった。何というものを欲するのか、この上司は。十割が十割本気でなかったとしても、その言葉には恐らく殆ど偽りなどないのだろう。莫迦だとか、下らないとか、巫山戯るなとか、そんなことを思うよりも先に、ただ、この目の前の存在がとても危険だと感じた。

「……漠然と、詰まらねぇ。確かに、毎日お前と喧嘩しながら雑務熟(こな)して、こうして酒を呑む日々も、それはそれでいいんだけどな、」

そう云って、何処から取り出したのか、新しい酒瓶を卓子の上に音をたてて乗せると、飛翔は杯に酒をなみなみと零れる寸前まで注いだ。それを、危なげな手付きで唇まで運ぶ、その際に、一滴の酒が杯を伝って飛翔の手背を辿るのがわかった。それを惜しいように舌で拭う。玉は、発語が儘ならなかった。

「こう、手に付けられないような奴が、工部でも朝廷でも騒がしてくれればいいと思うだろ?」
「思いません、」

悪戯事を企んでいる子供のような顏は、いつかこの人自身が自ら危険へと足を踏み入れてしまうのではないかという危惧を、少なからず玉に与える。そして、再び無意味なことを考えた自分に対し、玉は自己嫌悪に陥る、その原因を睨みながら。

「おい……どうにかして呉れ、」

飛翔は、乞うように云う。そして、空になった自分の杯へと再び酒を注ぎ、次いで、玉の酒杯をも満たし始めた。この男は、この杯のように刺激に充たされた日々を欲するのだろうか。

「無理です、我慢なさい……今は、私で」

柄にもない言葉を吐いたと、玉は瞬間後悔するが、にたりと厭味を感じさせる笑みを飛翔が浮かべると、云い訳は逆効果だと察し、口を噤んだ。

「…………貴方は、すくいようのない莫迦です」

もう、好きにすればいいのだ、と思う。
彼の最期がどうであれ、恐らく、そこまで自分が彼に関わり続けることはないのだと、できないのだと思うからだ。そして、その予感は間違いではない。自分とは異なり、飛翔が全ての事象から逃げ出すことは、きっと容易い。飛翔には自分のような柵(しがらみ)という柵が(それは、家、だ)存在しない、積極的に自分がそれを手にしない限り。そして、少なくとも彼には、同期である友人というそれが存在しているはずであるが。

「…すくえ、お前が。俺をすくえるのは、お前だ、副官、」

命令することに慣れた口調で、毅然と、儼然と言い放った飛翔は、小憎らしい笑みを顏に貼り付けている。飾らない言葉の数々は、いっそ憎らしいほど清清しい。きっと、彼は死ぬ直前までその笑みを崩さないのだと想像すると、玉は殊の外苦笑を洩らさずにはいられなかった。
自分こそ、この愚かな上司にすくわれたかった。掬って、救って、それでも巣喰って欲しいのだ。







以前、blogに載せた工部です、いろいろと加筆修正しました。キーワードは「すくう」。時期的には、「はじまり〜」よりも少し前です。秀麗は未だ賃仕事に奔走している頃、且つ、王様は昏君の頃。
玉が飛翔に杯を贈ったという(捏造)過去話も、いずれ(需要があれば)書きたいと思います。