徒労感があなたの声で、

低く囁きかけてくる


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戌の刻すらもすっかり廻ってしまい、昊も完全に闇に包まれた頃、珀明は、仕事から二日ぶりに自邸へと戻ってきた。
二日間の殆どを、睡眠どころか仮眠をとることもなく仕事に追い遣られていたせいで、ひどく疲れていたが、それでもまだ二日で解放されたことは幸運だったと、珀明は自分に云い聞かせるように、なんとか門番に労いの言葉をかけて自邸の門を潜った。
すると、邸の中から家人が出てきて、珀明を迎えるようにして、礼をする。家人は、珀明が言葉を発するよりも先に、心持ち申し訳なさそうな表情を浮かべて、珀明様と声を掛ける。その表情に、はっきりと困惑の色が見て取れたため、珀明は「どうかしたのか、」と尋ねた。
「・・・・・・・藍、龍蓮様が、珀明様を訪ねていらっしゃっております、」
「・・・何。龍蓮が、いるのか、」
疲労のせいで下がり気味だった肩を上げるように家人の言葉に反応した珀明に、家人は是を返す。
「それで今は、珀明様の臥室に・・・・・・申し訳ありません。客室でお待ちするように申し上げたのですが、どうしてもとお譲りになられなくて、」
消沈しつつ告げてくる家人に、珀明は、それは無理もないことだと、彼の苦労を察する。そもそも、龍蓮に、普通の人間がついていけるはずもないのだ。龍蓮が、この邸を訪れることは、別段初めてではない。家人もそれを承知しているし、僅かだが、何度か龍蓮を前にして、言葉を交わしたこともあった。だが、そこには、必ず珀明という媒介が存在していたからこそ、成立していたものであって、この度、それと同様のものを望めと云っても、無理であるだろう。それを理解しているからこそ、珀明はその家人を咎めようとは思わなかった。
「いや、よく対応してくれた・・・」
だからこそ、労いの言葉を返す。すると、家人は安堵の息を吐いて、礼をして見せた。

「心の友其の三、珀明、今帰ったか」
珀明が家人と言葉を交わしていると、そこに、龍蓮が姿を現した。龍蓮の姿を目にすると、家人は龍蓮に対して礼をして敬意を示すが、珀明は、本当にいることを確認すると、呆れた顏を隠そうともせずに龍蓮へと視線を向けた。直前までは、家人の話が、夢か冗談であればいいと、珀明は、何処か頭の片隅で考えていた。
「・・・・・・・龍蓮、」
他にも、何か云いたいことはたくさんあったのだが、龍蓮の間の抜けた顏を見た瞬間、口から出てきた言葉は、目の前の男の名のみで、何か云わねばと思ったが、驚くほど言葉は生まれてこない。恐らく、疲れていて、上手く思考が働かないのだと、軽く言い訳めいたことが頭に浮かべば、身体まで疲労を思い出してしまう。
「・・・・・・ふむ、相当疲れているな、心の友其の三。それに、また、痩せたか、」
一歩ずつ近付いてくる龍蓮は、珀明の肩に手掌をのせるなり、そう反応する。覗き込むようにして、真面目に問うてくる龍蓮の、その眼に、珀明は少し気圧されつつも、敢えて否定しておいた。仕事の忙しさの余り、己を顧みることを疎かにしてしまう珀明を見ると、龍蓮はあまり良い顏をしないからだ。
顧みないのではなく、顧みることができないのだと思っていても、云い訳にはならないため、口にすることは殆どないが、龍蓮から心配するような言動を向けられると、云い表しようのない思いに駆られる。
「珀明様・・・お夕食はどう致しましょう、」
「いや、必要ない・・・僕はもう寝る。・・・・・・龍蓮、お前は、腹は空いていないか、」
とにかく、今の珀明の身体は、食事よりも休息を必要としていた。時間が時間であるし、食事とは云えないが、仕事の合間に間食は摂っていたため、別段空腹と云うわけでもない。
「気遣いは無用だ、珀明。それよりも家人殿、桶に、毛巾、それと湯を水瓶に入れて持ってきてくれ」
「な、・・・・・・何をするつもりなんだ、人の家の家人を使って、」
しかも、邸の主である珀明の傍らに立つ、龍蓮の言葉に、家人は殆ど頷きかけていた。藍家直系である龍蓮を、碧家以上に見るのは仕方のないことだとは、珀明も理解していたが、それにしても納得はできない。だからと云って、家人を咎めるわけにもゆかず、代わりに龍蓮を睨んで、言葉の真意を訊ねた。
「・・・ああ、仕事で疲れた珀明の身体を癒すために、ここは一つ、足浴をしてみてはどうかと思った」
「・・・・・・そう云うことは、事前に僕に云ってから行動に移して然る可きだろうに、」
この際、突拍子のない龍蓮の行動に驚くことはなかったが、そうされることが自分にとって望ましいことであろうと云う、龍蓮の思考に、珀明は脱力を覚えた。疲弊した身体を労わってくれるのは、有り難いことだとは思うが、それとこれとは、また別問題である。
というよりも、朋友であるとは云え、そこまでするものだろうか、と云う疑問が、珀明の頭を占めているのは、違いない。そのような関係もあるのかもしれないが、少なくとも、今まで培ってきた珀明の交友関係に関する価値観において、そのようなものは存在した試しがない。
「すまない、では、是非、珀明に足浴をしたいのだが、してもいいだろうか、」
珀明は、家人をちらと覗き見る。この場において、最も気掛かりなことが、龍蓮との会話を第三者の耳に入れてしまうことだ。賢い龍蓮のことだから、その点においてはしっかりと理解して会話を進めているのだろうが、それは飽く迄、龍蓮の認識であり、珀明のそれとは異なるということが問題だ。正直、この会話すらも、珀明は外に漏らしたくはない。
家人は、龍蓮からの依頼を受けようとはしたものの、主である珀明の制止もあって、如何すれば良いのか、考えあぐねていると表情が物語っている。悪いのは全部龍蓮であるはずなのだが、目の前の男の心の友という位置を占めてしまった身としては、心の中で謝らざるを得ない。
「・・・・・・・構わん、勝手にしろ」
これ以上、龍蓮との会話を長びかせるのも本意ではなかったため、珀明は既に慣れてしまったが、自らが折れるという結果に事を導いた。
「そうか、では、家人殿よろしく頼む」
龍蓮の再度の依頼に、家人は是を示した後、二人に礼をしてその場を後にした。





卓子の横で、珀明は椅子に坐りながら、卓子に肘をつき、龍蓮のとる行動を見ていた。先程から、卓子の上で、水瓶の湯を桶に注ぎながら、その湯の温度を調節しているのに夢中で、珀明は暫くの間、放置されていた。
正直な話、足浴はもういいから、さっさと眠ってしまいたい気分ではあった。しかし、ここで龍蓮の申し出を断ることは、何処か気が引けたため、何も云わずに待っているわけだが、やはり眠気は付き纏う。
ちゃぷちゃぷと聞こえてくる水音が、更にそれを助長する。このまま、睡眠と云う名の水溜まりのようなまどろみの中に沈んでしまいたい。
「・・・・・・・・・」
龍蓮が、何やら軽く頷いて、納得のいった顏をするのが見えると、桶を両手に持ち、珀明の足元へと移した。桶へと視線を移すと、そこからゆらゆらと湯気が見えた。あたたかそうだ。
すると、睡衣の裾を膝の辺りまで捲られる、それを拒絶したくて堪らない衝動に駆られたのだが、珀明は、寸でのところで抑えた。一応、許可をしたとは云え、身体を龍蓮のいいようにされることに、鄭江環は少なからずと云うよりも多大に残っているからだ。膝関節の部分で、下にずれてこないようにと器用に纏められた身頃を、珀明は殆ど無意識に片手で支えていた。
「・・・珀明、足を、」
龍蓮が漸く、珀明を明確に対象として言葉を掛けてくる。足底部に触れる手前で、龍蓮が床から足を上げるように告げてきたのだとわかると、珀明は沓を脱ぎ捨て、僅かに宙に浮かせた足を龍蓮の方へ差し出した。
珀明の足底と足関節に触れてきた龍蓮の手は、今まで湯を扱っていたせいでとてもあたたかかった。少し冷えていた珀明の足に、龍蓮の手からじんわりと伝導してきた熱は、それだけで十分過ぎるほど、珀明の身体をあたたかくする。
「熱いか、」
「・・・いや、丁度いいあたたかさだ」
桶の真上で、珀明の足を片手で支えた龍蓮は、湯温を確認するために、その爪先へと軽く掛け湯をする。はじめに、湯が掛けられたときには、僅かに息を飲んだが、予想していたよりも、心地好い適温に、珀明はだんだんと己の身体が弛緩してくのがわかった。
愈々、桶に足を入れると、今度こそ身体が火照る。睡衣を押さえているのとは反対の手で、すぐ隣の卓子を掴む。眠気のせいもあるが、上手く体重を支えられないからでもある。
目の前に跪くように、甲斐甲斐しく世話をしてくる龍蓮の旋毛を見ながら、思う。
「(・・・僕は、一体・・・何をやっているんだろう、)」
と云うよりも、何をやらせているのだろう、の方が正しいのか。
ちゃぷちゃぷと、水音が響く。
眠い。
龍蓮の長い指が、珀明の足底を支えながら、足の指の間や踝の辺りを揉むようにして解していく。それが、時折くすぐったく思えて、珀明は気付かれないように僅かに身を捩る。
「気持ちいい、か、珀明、」
「・・・・・・、」
何となく、返答し難く思えて、珀明は肯くだけに留めた。
珀明の反応を確認すると、龍蓮は再び珀明の足許へと視線を移した。
それまで視界に入っていた、龍蓮の旋毛が次第に暗闇に消えていく。瞼を下ろしたことで、目の前は真っ暗になり、より聴覚と触覚が際立つように思える。
「・・・・・・ん、」
眠い。珀明は、小さく、しかし訴えるように呟く。
瞼を下ろしてしまったせいか、一気に眠気が襲ってくる。瞼だけでなく、頭も重い。
そもそも、疲れているところに突然現れて、いきなり足浴をすると云いだしてきたのは龍蓮だ。その申し出を受け入れてしまった自分にも問題はあることを承知はしていたけれど、眠気に覆われそうな思考で、珀明の頭はそこまで働かなかった。
「もう、終わる」
龍蓮はそう云い、珀明の両足の踵をまとめて支え上げ、水瓶に入った適温の湯をかけて、汚れを濯ぎ落とす。桶の中の湯は、いくらか冷めて温いと表現してもいいくらいだったが、新しく注いだそれは、とても温かい。
温かさを保持する足を毛巾で覆う。そのまま脚を持ち上げて支えると、押さえ拭きをして、珀明の足を乾かしてゆく。足の裏、踵、指の間に至るまで。
その細やかな気遣いに、珀明は襲いかかる眠気に加え、やり場のないもどかしさを覚える。
「・・・・・・眠い、」
誤魔化すように、再び呟いた言葉に、龍蓮は面を上げてくる。
手の動きが止まっているところをみると、漸く終わったようだ。終わったと意識した途端、瞼が一気に重く感じられた。
珀明が右手の甲で目を擦るのとほぼ同時に、龍蓮が捲り上げていた裾を、元に戻す。しかし、綺麗になった珀明の足の裏が、床につかないようにと支えるための手は、未だ離れない。触れ合った互いの膚が、同じ温度を保っている。
「もう、眠るのか、」
跪きながら見上げてくる龍蓮を、朧な視界に入れながら、珀明は小さく頷く。言葉にして返すのも億劫だ。
早く臥牀に転がりたくて、珀明は立ち上がろうと、足を支える龍蓮の手から離れようとする。だが、予想外に、龍蓮は手を解こうとしなかった。
なんだ、と云うように眉を顰めて龍蓮を見遣るが、殆ど眠気を含んだ視線では、全く効を奏さない。
「私が、運ぼう」
「・・・やめろ」
踝から足底にかけてを支えていた龍蓮の手が、そのまま滑るようにして、珀明の膝窩へと移動する。これは、確実に横抱きにされて運ばれるのだと、鈍くなった頭でもなんとか想像できた珀明は、傍に寄ってきた龍蓮の肩を押さえて軽く拒絶を見せる。
「・・・せっかく、私が綺麗にしたのだから・・・汚したくはない」
そう云うと、そっと皮一枚を器用に撫でるようにふわりと、龍蓮は、珀明の足を撫ぜ上げた。触れるか触れないかの際どい接触に、けれども、僅かに風が触れたような感触に、珀明は、背中にぞくりとしたものを覚えて、くらりと眩暈がした。
足浴させたことにでさえ抵抗を覚えたというのに、これ以上、龍蓮に何かを奉仕させるような真似をさせるのは厭だ。
そもそも、自分たちはこのような関係ではない。同等に、向き合える存在だと思っていたのに、一方的に何かをして貰うのでは、納得がいかない。同じ目線でいたいというのに。
だと云うのに、留まることをしらない眠気のせいで、抵抗は中途半端に終わり、言葉も上手く紡げない。
「・・・うぅ、」
龍蓮は、珀明の背へと空いた片腕を回すと、珀明の言葉を無視して、力強く抱き上げた。身長は確かに龍蓮の方が幾分か高い、体格も細身の自分と較べて、龍蓮の方が、骨格が出来上がっている。けれども、同じ性を持つものとして、この扱いはあんまりだと、珀明は思う。嫌がらせのつもりか、と問い詰めたいが、そのような可能性は一厘も有り得ないので、扱い辛いのだ。
珀明は、納得がいかないと、顏を顰めるが、抵抗する体力もなく、龍蓮の身体に頭を、身体ごと預けた。
このまま眠ってしまえば、余計なことも、気になることも忘れて、楽になれるのかもしれない。そう思うと、睡魔の手招きが、より魅力的に見えてくる。その手を、取ってしまおうか、そう考えあぐねている間に、あっさりと臥牀に辿り着いてしまった。
臥牀の上に下ろされると、その柔らかい感触に、ほっと息を吐く。今まで、身体の何処かを緊張させていた何かが、解けてゆく。
足がぽかぽかとあたたかいのも、珀明に安心感を与える。身体中の循環が良好に働いているのが、それぞれの末梢部位を見て、感じて、はっきりと確認できる。
「・・・おやすみ、珀明」
臥牀に腰を下ろした龍蓮が、珀明の前髪を弄りながら囁いてきた。
「おま、えは・・・、」
こちらが悔しくなるほど、優しく扱われて、龍蓮を放置したまま意識を飛ばしてしまうことが躊躇われた珀明は、目を完全に瞑ってしまう前に、訊ねた。お前は、この後どうするのだ、と。
「・・・ねむれ、龍蓮」
なんとなく、龍蓮がこのまま帰る(何処に、など珀明の知るところではない)のだと云いだすのかもしれないと、そう、感じた珀明は、龍蓮の答えを待たずに、己の隣を一度だけ叩くと、殆ど命令口調で云い放った。
「・・・・・・・・・・・・ああ」
暫くの沈黙の後に、了承の返事が返ってくると、いよいよ瞼を閉じ切った。
思い知ればいいのだ、と思う。そんな、足浴なんてしなくても、碧珀明は、藍龍蓮を拒んだりはしないのだと。

そのすぐ後に、珀明は、少しだけ後悔した。礼を、云うのを忘れていたのだ。
ありがとう、と、ただそれだけのことなのに。
しかし、欲と云うものは良くも悪くも避けがたいもので、珀明はこれ以上の抵抗を見せることなく、意識が消える最後に、身体の上に被子(かけぶとん)が掛けられた感触がしたのは、恐らく間違いないのだろうな、と思いながら、臥牀に沈んでいった。







大変お待たせしました。足浴ネタで龍/珀です。
・・・・・・これでいいのだろうか、という疑問は始終ついてまわるのですが、もう、これ以上は無理です。ので、勘弁して下さい。本当は、一緒にお風呂に入っちゃえばいいのに、とか思わなくもないのですが、彩雲のお風呂ってどうなっているのかわからない上に、そんな大きなお友達向けの内容になりそうなネタは無理だと、諦めました、脳内妄想だけにしておきます。
足浴すると眠くなります。やってもらっている最中に、うとうとしてしまったことがある私です。冷えたからだ(主に足)には、壮絶な効果が期待できる足浴。皆さんも、一度やってみるとわかります。ちなみに、足浴のときの湯の適温は39〜41℃です。