諦念はすぐに覆される





不意に誰かに呼ばれたような気がして、榛蘇芳は、内心面倒臭いと思いつつも、だがそれを如実に表すように頸だけで後方を確認した。後頭部を掻きながら見た視線の先には、出会ってから幾度となく波瀾万丈なことばかりに人を引きずり込んでくれた、ある傍迷惑なお嬢さんと似た背恰好の、もう一人の女官吏がいた。だが、明らかに大きく異なるのは、その胸の大きさだろうなと、蘇芳は、段々と近付いてくる碧珀明を頭の天頂から足の爪先まで眺めてから、改めて感じた。しかし、口に出したら、彼女――紅秀麗――だけでなく、その家人も恐ろしいので、口は噤んでおく。少しでも自分の安寧を守る賢い選択だ、蘇芳はそう判断した自身を褒めた。
「―――こんにちは、」
軽い礼と挨拶の後に、タンタンさん、と言葉を繋げた珀明に、蘇芳は僅かに脱力を覚えながらも返事を返した。これは、確実に秀麗の影響だ。あの恐ろしい家人が余計な渾名をつけてくれたせいで、この彼女もまた、自分の名前を正確に記憶しているのかさえも怪しい、確率と云えば最早五割だろうか、蘇芳は厭厭ながらも考える。そんな現実を突きつけられるのも厭な上に面倒臭いので、蘇芳はタンタンじゃなくて榛蘇芳なんだけど、という指摘すらも放棄した。
直ぐ隣に立たれてみると、やはり小さい、蘇芳は思う。実際、珀明と顏を合わせた回数は、一、二度しかないのだが、そのきっかけ(というか事件)が印象的なものであったため、しっかりと蘇芳の記憶に残っている。しかし、何処かやつれているように見えるのは間違いではないだろう、吏部官として多忙な日々を送っているのだから無理もない。
「・・・あの、付かぬ事を伺いますが・・・、」
「何、」
そう、あのお嬢さんもたまにはこれくらいの謙虚さを見せてくれればいいのに、思うだけ無駄かもしれないとはわかっていながらも蘇芳の思考回路が動く。
次の言葉を促してみたが、珀明はやや濁った言葉を先に進めずにいる。聞きにくいことをわざわざ聞こうとするのは、なかなか精神的にも労力を要するのだがと、蘇芳は暫くの間黙って珀明を眺めていたが、珀明はそれでも何とかして口を開いた。
「・・・・・・秀麗は、・・・しっかりやっていますか、」
「さあ、きっと今は冗官室にいるはず・・・・・・でも、しっかりはやってるんじゃない、別の方向でだけど」
秀麗は、元来のお節介を発揮して、見る必要のない他の冗官達の新しい仕事先を見付けるために尽力を尽くしている、その点ではしっかりやっているのかもしれないが、それで自分のことが疎かになっているのは紛れもない事実だ。
「・・・・・・やっぱり・・・まだ部署が決まってないのか、あいつ」
蘇芳の言葉から、秀麗の大体の現状を察した珀明は、軽く歯噛みをする。それと同時に眉を顰めるので、蘇芳は怒っているなとは思いながらも、傍観者を決め込む。どうやら、ある程度は秀麗の状況を噂などで聞いていて、把握していたらしい。
「・・・世話焼きとお節介はあれほどほどほどにしろと云ったのに・・・」
呟くようにして一人で言葉を零している珀明に、蘇芳は内心で、心から賛同の意を示した。頼むから、それを云ってやってくれ、と。同じ女官吏でも、秀麗とは違って、まだ珀明の方が処世術を身に着けている方だなと感じるものがある。だが、表面では怒りながらも秀麗の心配をしている時点で、珀明にも甘さは抜けない部分が残っていると、蘇芳は感じた。
「でもさぁ、俺に聞かなくても、様子見に行けばいいじゃん、友達なんだろ・・・・・・まさか、会いに行き辛い理由でもあるとか?」
「・・・・・・確かに、仰る通りかも、しれません・・・同じ、女官吏なのに、どうしてか秀麗ばかりと・・・っ、」
目を伏せながらも少しずつ言葉を紡いでゆく珀明の頭頂部を、突然蘇芳の手掌が覆い、その言葉を遮る。しかし、その手掌は、蘇芳の気まずそうな顏と共にすぐに離れてゆく。
驚きを含む見開いた双眸が蘇芳を見上げてくる。大きな眼だなと思う、奇麗な碧眼だ。零れそうだ。見つめられたこちらが尻込みしてしまいそうで、そう云うところは秀麗に似ている。
「あ〜、・・・まあ、あんたがそんな気にしなくても、お嬢さんはそんなこと気にしてないし。それに、お嬢さんと違って、別にあんたは無茶してるわけじゃないだろ。それよりも、云ってやってよ、そんなことしている場合じゃないって。俺はもう、そこら辺諦めたからさ、」
「・・・タンタンさん、いい人ですね」
そう云って、笑顏を向けられ、蘇芳は背中にこそばゆい感じを覚えた。滅多に口にされることのない言葉に免疫など持ち合わせてはいない。貶されるよりも褒められることの方に抵抗があるだなんて、自分も大概駄目人間だなと思う。
「何処が・・・・・・俺は、面倒臭いと思ったことを、他人に任せるような奴だから、」
実際、突っ走っている秀麗を清雅に任せてきてしまった節がある(良い意味ではなくて)。
「そんなことないですよ、万里のことでは本当に感謝していますから・・・・・・・・・あ、秀麗のこと、よろしくお願いしますね」
いや、待って。よろしくとか云われても困るから、俺、あのお嬢さんの保護者でもなんでもないから。
心の中で突っ込んで見せるが、それではと、軽く礼をして立ち去ろうとする珀明の背に、その言葉は拒まれたも同然だった。可愛いのに、やはりあの秀麗と同期で友人だなと、蘇芳は思った。





終畢

蘇芳+珀明。はい、蘇芳って誰?とか言わないで下さいね(笑)時期は「緑風」で、秀麗が吏部で珀明に会う前までです。
この2人は、「紅梅」で接触あっただろうなぁ・・・と信じて疑わない私がいる。半信半疑でも、信は8割ですから!(通常ならば疑が8割な女です)もう、このシリーズは龍珀というよりも珀明総受だな、うん。
ところで、こんなところで言うのもなんですが、やる気のない蘇芳(ことタンタン)が好きです。できれば、蘇芳に「倦怠ライフ・リターンズ」を歌って欲しいと願っている私がいる(やめろ)。いや、絶対タンタンでも通じるよ、あの歌(@キョン)
私はどうやら、珀明の頭を誰かに撫でさせるのが好きな件(はい、どうでもいいですね)。