真摯な目でからかったひと





未だ着なれていない、碧色を基調とする官服を身に纏い、珀明は少し疲れた風に廻廊を歩んでいた。丁度、吏部の先輩官吏に(半ば投げ遣りに)任された雑用とも云える仕事を終えたところだった。吏部の執務室の机案の上に積み上げられた、凡そ尋常とは言い難い程の書簡の山も、何度か他部署や府庫を往復したお陰で全て片付いた(けれども、吏部に戻ればまた新しい仕事が舞い込んでくることだろう)。
しかし、それでも構わないのだと珀明思ってる、今は。所詮、新人官吏であり、女人官吏である自分は、何も為さない内は舐められて当然で、これはその一歩でもあるのだ。寧ろ、そのせいで仕事が廻されずに無視されていないだけでも上々と云える。その点に関しては、この部署は最適である(そして、戸部も又然りと云える)。主に長官のせいで年中多忙なのだ(戸部は専ら官吏不足が原因であるが)。猫の手も借りたい、とはこのことを云うのだろう。先輩官吏たちの目つきは最早尋常ではなく(あれは、幽鬼だ)、新人(それも女人)官吏を虐げている暇など、殆ど存在しない。

珀明は、徐に左腕の袖を肘関節まで捲った。細い腕が露わになる、今まで然程日に当たっていることのなかったそこは、白いと云っても過言ではなかったが、度重なる腕への負担のためか、前膊には幾筋かの赤い跡が残っていた。そこに、女としての非力さが垣間見えるようで、珀明は暫くの間眉を顰めるが、最早気にすまいと決意したことであるので、直ぐに気を取り直して袖を整える。

同期であり、同い年でもあり、その上自分と同じ女人官吏である紅秀麗とて、今は、同じく同期である杜影月と共に、茶州州牧として茶州に向かっている危険な道中であるのだから、自分も気を抜いてはいられないと、珀明は自分を叱咤激励する。それに、吏部には尊敬して已まない上司もいるのだから、尚更だ。
珀明は、吏部への帰路を、改めて歩調を速くして進もうとした。

「おい―――――碧、珀明、」

「はい、」

すると、急に後ろから、低い声で名を呼ばれて、珀明は返事をして振り返る。だが、その声の主は、予想以上に近くにいた。考え事をして背後に誰かが近付いてくることすら気付かなかったのかと、珀明は内心自分を責め、また驚いていた。
視線を水平にしていては、その顏を窺うことができないほど近く、相手の胸部が視界に映る。仕方無く、珀明は視線を上げると、漸く視界に入った人物は、知らない者であった。いや、知らないと云うのはあまり正しくはなく、何処かで見たことがある気がするのだが一向に思い出せない者、と云うのが適当であった。
歳の程は、若いとは言い難いが、それほど歳をとっているとも言い難い。鬚は、不精の末のものなのかそうでないのか判断しかねるけれど、あまり見目が良いものとは云えない。官服もやや無造作に肌蹴てある。官吏であることは確かなようではあるが、それにしては、体格が良く、(装い云々を気にせず)武官と云われても納得できるものである。

「・・・・・・でけぇ、眼」
「・・・へ、・・・・・・っっ!」

暫く、にたにたと、お世辞にも好印象の持てるとは云えない笑顔と視線が、珀明に向けられていたが、その官吏は、揶揄するようにそう呟くと、大きな手掌を開いて、珀明の頭の上に、少し乱暴に載せた。そして、驚愕の表情を浮かべる珀明などお構い無しに、何度か撫で回した。
珀明の腰ほどまでに届く金色の髪は、両横髪の一総を残して後ろで上手く束ねられているが、撫で廻されたおかげで頭頂部が少し崩れた。それを手櫛で直そうにも、目の前の官吏の手掌はそこから離れてくれないので、それも叶わない。

「俺は、まだ女官吏なんざ、認めてねぇが、まあ、頑張んな・・・嬢ちゃん」

男は、視線の高さを、珀明のそれに合わせる。

「・・・貴方は、」
「それにしても・・・よりにもよって吏部とは、物好きだな」

男が笑った。すると、口臭が臭ってきた、というよりもこれは酒の匂いだ。それも、一種類ではなく複数の酒だ。そのせいで、珀明は男に対して、怪訝そうな瞳を向けた。昼間から官吏が飲酒なんてとんでもない。
男の言葉に少々反抗心を覚え、言葉を発しようとしたが、それよりも早くに向こうが口を開いてきたので、珀明の反撃は不発に終わった。

「一つ、ひたすら頑張れ。一つ、今ここで俺に会ったことは口外無用。一つ、俺への賄賂があれば酒。・・・わかったか、」

「・・・あの、」

「わかったか、」

これは、殆ど脅しの入った言葉だ。真面目な瞳に腰が引き気味になる。是という答えしか許そうとしない剣幕に、珀明は漸く小さく肯いて見せた。すると、満足した表情を浮かべ、男はもう一度珀明の頭を撫で、珀明はやっとのことで、その少し粗野で、大きな手から解放される。珀明は、内心ほっと安堵するが、その久しくされた記憶のない行為に、郷愁の念を軽く抱いた。

「まあ、俺の顏に泥塗るなよ、」

(この人は・・・・・・)

そう、意味有り気な言葉を云い残すと、男はじゃあなと片手を揚げて去ってゆく。誰だろうと黙考しながら、珀明は、その男の背を、黙って見送った。





終畢