やさしさのかけらもない紫煙 |
外朝を歩いていたところ、静蘭は後ろから急に呼び止められた。それが一応は上司であるため、渋々と随って(半ば引き摺られるように)、庭園の一角へと向かう。既に当たりは瞑色が漂っているが、施されている石造りの椅子を確認すると、腰を下ろす。ちょうど1人分の間隔を空けて。そして、その上司もとい藍楸瑛は口を開いた。 「君は、随分と燕青殿に気を許しているね。」 前から気になってはいたんだと、隣に坐る静蘭を横目で見ながら食えない笑顔を振り撒く目の前の男に、静蘭は溜息を吐く。そんなことを言うために自分を呼んだとするならば、この主上付きの武官は相当暇なのだと、静蘭は呆れる。しかし、楸瑛の口から燕青の名を聞いて、静蘭は今頃は遠い茶州で(おそらく勉学に勤しんでいるはずの)男を思い浮かべた。 「いや、羨ましいと思ってね・・・君が気を置ける人物を、私は3人しかお目にかかったことがないから。」 主上に秀麗殿に邵可様、と指で数えながら楸瑛は呟く。 「あんなのは、そこらの米搗きバッタと同じです。少々買い被りすぎですよ、藍将軍。」 静蘭は当たり障りのない笑みを浮かべながら返事をする。正に気を置かなければならない代表例が隣に坐っているのだ、そう易々と何でも話せるはずがない。昔から、他人に、身内にでさえ、自らの弱い部分を見せることができないのだ。たまに、そんな静蘭の内情も知らずに、その壁すらも飛び越えてしまう人物もいることにはいる。 「私はそう思わないから聞いているんだけどね。」 それに、静蘭の口にする「米搗きバッタ」は、楸瑛の知る限りでは、照れ隠しに使われることがしばしばだ。言われる燕青もそれを知っているのだろうと、楸瑛は考えている。 「でしたら、それは、貴方の勘違いです。もしその通りだとしても、燕青と私のことですから、貴方には関係がないでしょう?何の損もありませんからご安心下さい。」 つまりは、微塵も関係がないのだからもう帰ってもいいですかと、遠回しに言っている。勿論、聡い楸瑛が理解できることを知って、静蘭も丁寧に言葉を選んでいるのだ。 「・・・・・・君は、相変わらずだね。」 「なんのことですか。」 息を吐いた後に発した楸瑛の言葉に、静蘭は小さく反応した。そして、軽く楸瑛を睨むと、無関心を装って言葉を返す。 「貴方は、相変わらず、私のことなど・・・」 「黙って下さい。いくら藍将軍と雖も、それ以上仰るようでしたら容赦はしません。」 楸瑛の言葉を途中で遮り、静蘭は言葉を強張らせた。だから嫌いなのだ。口では何でも言える。忠誠とて誓える、愛すらも囁ける、藍楸瑛はそういう男だ。 嘗て、この目の前の男が自分へと向けていた口調を耳にし、静蘭は顔を歪める。そんな静蘭の凄みを増した表情を、楸瑛は依然、顔に笑みを貼り付けたまま見続けていた。いつもとは違う色を込めた瞳で。 「静蘭・・・。」 そう、懐古を含んだ声色で名を囁かれ、静蘭は眉を顰める。確かに名を呼ばれてはいるが、その言葉の奥には今の自分でない、嘗ての自分が感じ取れた。自分に向けられているとわかっていても、相槌を打つこともしたくはなかった。 楸瑛は1人分空いた空間をさり気なく埋め、そのまま静蘭の薄い青藤色の髪を一房掴み、軽く口付ける。静蘭は瞠目する。慣れすぎたと言っても過言ではないその行為に、静蘭は抗う隙も作れないまま、自分の髪から楸瑛の唇が離れていくのを見ていた。 「・・・っ、何を・・・っ!」 我に返り、静蘭は両手で楸瑛の胸を押し退ける。だが、2人の間に生まれた隙間は、楸瑛が腕を伸ばせば容易に静蘭を捕らえられる程で、多少の意味しか成さない。静蘭は俯いて歯を食い縛るが、体だけは成長した年下の男に、力で敵わないことは承知していた。 「・・・・・・私を、失望させないで下さい、藍将軍。」 「失望されるほど、貴方に望まれていたとは・・・。」 軽口を言って、楸瑛は未だに捕らえたままの静蘭の髪から手を離す。 本当に、この矜持の高い人物に、今まで本心から期待されたことなどないのだ。楸瑛は自嘲的な笑みを浮かべた。確かに、彼の最愛の弟に仕える存在として一応は認められ期待されているとしても、そこに絶対と言えるものは存在しない。少しでも道を誤れば、おそらく、自分は切って捨てられてもおかしくはない。 「・・・貴方が、誓えもしない契りを口にしたときから、私の中の貴方という立場は不動のものとなってしまったんですよ、藍将軍。」 今は思い出すのも億劫になってしまったが、藍家の少年が自分の足下に跪きながらも、その心を預けたいた存在は、確かに自分ではなかった。跪く少年を見下ろす自分の表情には、確かに嗤笑(ししょう)が浮かんでいたのを、静蘭は遠い昔のことと感じた。 「貴方は、いつでも酷いことばかり仰る。」 苦笑を浮かべながら、楸瑛は口調を変えずに言葉を吐く。どんな種類のものでも、けして笑みは絶やさない。そして、何故か、今では自分よりも明らかにその細い体を、粗雑に引き寄せて掻き抱いてしまいたいと感じた。嘗ては、その崇高な存在に支配されたいとさえ思ったはずだが、今はその逆のことを考えている自分がいる、楸瑛は静蘭を見遣る。何故だろうと自問しても、何も返ってはこない。恐らく、誇り高い彼は、そんなことを許してくれはしないだろう。 楸瑛は徐に静蘭の左手に触れ、そっと持ち上げた。意外にもその行為は拒まれず、静蘭は無表情で受け入れていた。その手へと、楸瑛は先程と同じように唇で触れた。 向けられる視線は冷たい。拒むことをしないのは、愛や同情などではない、もっと自分に虚しさを与えるものだ。けして、心から受け入れることはないとありありと示されているようだと、楸瑛は感じた。例え、このまま無理に抱いたとしても、それは自分の首を絞めるだけでしかないのだ。それなら、せめて。 「・・・・・・忘れさせて下さい、貴方を。」 口付けた手から、ほんの僅かだけ唇を離し、やっと聞き取れるほどの小さな声で呟く。願いを乞う。 どれだけ楽になるだろうか、どれだけ切ないだろうか。けれども、彼にとっては些細なことだろう。 静蘭はその呟きを聞き取ると、表情を変えることなく、愚かだと瞑目した。そして、空いた手で楸瑛の頤(おとがい)を擡(もた)げると、自分へと視線を合わせた情けない顔の男に笑みを向け、静かに唇を塞いだ。 捕らえられた唇は、暫くすると名残を惜しむことなく離れていき、静蘭はそのまま腰を上げた。 「忘れさせて欲しいなどと甘えたことを仰る暇があるなら、精々、成長するまで悩んで下さい・・・・・・これで、当分忘れられないでしょうし。」 静蘭は、上司へとる礼を恭しく楸瑛に向け、踵を返した。そこに、微塵の名残も見られなかった。そんな静蘭の後姿は、いつの間にか闇に消えた。 残酷な仕打ちに耐えるかのように、楸瑛は始まったばかりの夜昊を見上げる。忘れられるはずがない。当分だなんて戯言でしかない、それこそいつかも知れない。常に妥協を許さない彼に、楸瑛は愛しささえ覚えた。 了 |