それが、錯覚した幸せだとしても http://www15.ocn.ne.jp/~muku-kan/IL/ |
月が煌々と仄かに闇夜を照らしている。外朝には既に官吏は殆どおらず、閑散としている。廻廊だけでなく、ところどころの室(へや)に小さな灯りを見つければ、それは未だに雑務をこなしているだろうという証である。その中には、当然と云ってもいいだろうが、吏部のそれも含まれていた。 外朝を徘徊していた静蘭は、空気を細かく振動させながら流れてくる二胡の音色に気付くと、無意識に音源へと足を運んでいた。静寂の中、草坪(しばふ)を踏みしめる音がやけに耳に付いた。 音源へと近付くにつれて、それが何処であるのかが明確になりつつある。しかし、それが何処であるかを察しても、静蘭の歩が止まることはなかった。未だ紡がれる調べは、以前、己の最愛のお嬢様の奏でる二胡で聞いたこともある。 相手は常人であるので、静蘭は敢えて気配を掻き消さずに接近した、すると、その草叢の故意の響めきに、二胡の旋律の持ち主は、ふとして顧みた。 「―――――おや、……珍しい聴衆ですね、シ武官」 そこに居たのは、紛れもなく欧陽玉工部侍郎であった。けれども、常時とは異なり、身に纏う装飾品の数々の半数近くが除かれ、且つ、結い上げてあるはずの髪も、彼にしては存外投げ槍に解かれている。 工部の部署のすぐ傍の庭院で何をなさっているのか、尋ねようともしたが、彼の腕の中に鎮坐する二胡を目にした瞬間、そんな気も殺げた。そんな無粋な真似をしてまで、聞きたいと思うほどの事項ではなかった。ただ、自分は二胡の音色に誘われてやってきただけなのだ、最愛のお嬢様を髣髴とさせるそれに。 「お邪魔をしてしまい、申し訳御座いませんでした、欧陽侍郎…」 やや申し訳なさ気に、静蘭は拱手をとる。 「構いません、樂とは誰かに聞かせてこそ意味のあるものです、私はそのような環境で育ちましたので……貴方は、この音に招かれたのでしょう?」 「はい、」 それなら願ってもないことです、玉は笑みを浮かべて言葉を返す。聴かせるために奏で、魅せるために紡ぐのだと、ひとりで奏でているだけではただの自己満足でしかないのだと、玉は云う。その言葉に賛同するように、静蘭は軽く相槌を打った。 「……ああ、貴方は腰まで届く長い御髪が似合うでしょうね、」 静蘭の頭の天辺から足先までを鑑定するように瞥見すると、玉は聊か呟いた。そこに深い意味は無いのだとしても、静蘭は僅かに身構えた。が、静蘭のそのような様子に気付くこともなく、玉は更に口を開く。 「以前から、貴方とお話することがあったら希いたいことがあったのですよ、」 「………呑まれて、いますね」 それもかなり。そうかもしれないとは、はじめに眼にしたときに感じてはいたものの、あまりにも顔に出ていなかったため敢えて指摘せずにはいたのだが。というか、工部侍郎である彼が、定時の時刻をかなり過ぎた今、このように外朝に留まっていることが常ならないことだ。 「ええ、まあ……うちの莫迦尚書が強引に誘うものですから…勿論、酔い潰してやりましたけどね。今頃、執務室の牀(ゆか)に倒れていますよ、いい気味です」 不敵に笑む玉の背後にある執務室の壁へと、静蘭は僅かに視線を向けた。酒豪である彼がそう云うのだから、本当に飛翔は潰されたのだろう。僅かに苦笑する。 「……貴方のその腰に佩かれた剣、干將、見せて戴けませんか?王から賜った大事な剣です、勿論手にはいたしません、ただ、純粋に目の前で見てみたいと思っていたのです、あの縹家が創ったという宝剣を、」 思わぬ真剣な乞いに、静蘭は刹那黙する。確かに、工部に属し、且つ、碧家と関わりのある玉ならば、武官に次いでこの剣に甚く興味を示すのも無理はないと思ったからだ。 だが、静蘭はあっさりと構いませんよと云って、腰に佩いた干將を玉の前へと差し出す。その瞬間、そこへと熱心に注がれた視線に、静蘭は苦笑せざるを得なかった。だが、触れたいという衝動を抑えている彼の判断はきっと正しい。常人は触らない方がよいのだ。特に、男の性を持った干將を男性が手にすることは勧められるものではない。抜き身を御覧になられますか、という静蘭の申し出に、是非と喰らい付いてきた玉に、やはり笑みを溢しながら、静蘭は鞘から剣を抜いた。その透き通ったしゃんという音に、玉は鳥肌が立つ感覚を覚えた。日頃、刃物とは縁も無い生活を送っているため、その音と感覚は酷く新鮮だ。夜の黒に映えるようにして、妖しく晄る剣は、やはり美しい。 暫くすると、満足した玉の言葉によって、干將は言葉通り元の鞘に納まった。 「ありがとう、ございます、」 満ち足りた表情を浮かべながら、玉は石椅子に立て掛けておいた二胡を手にする。 「……貴方は、二胡をお弾きになられますか、」 問う言葉に、静蘭はただ静かに首を横に振る。二胡はただ一人の人が弾いてくれればそれでいい、それだけで自分は満つのだ、静蘭は常常感じている。勿論、やれと言われればできないことはない、竜笛や篳篥、そのたの樂器とて、嘗て一通りのことは身につけたことである。 「では、他の樂器は…?」 其の問いに、静蘭は明瞭な答えを返さなかった。 「そうですか………残念です、」 引き際を弁えるその姿は、見ていて心地良い、静蘭は小さく礼をする。 「夜風はお身体に障ります、早めにお戻り下さい」 そうですね、と玉は頷く。 恐らく、静蘭が思うに、玉はする気があればさっさと退出できたのだろう。飛翔を酔い潰して、早々に彼を見捨てていれば、これほど暗がりの中、二胡を引いていることもなかったのだ。それなのに、敢えて飛翔の覚醒を待つような真似をする。だが、これを指摘したところで、全力で否定されることは眼に見えていたので、静蘭は口を噤んだ。 「…お休みなさい、好い夢を、」 「欧陽侍郎の二胡の音を拝聴できたのですから、おそらく、」 「お上手ですね、」 そう云って微笑んだ玉は、やおら危な気に立ち上がり、灯りの燈った執務室へと踵を返した。 了 静蘭受ではけしてないけれども、CPじゃないけれども、一応静蘭視点(っぽい)ということで、このお話は敢えて『静蘭受』の項目に分類させて頂きました。もう一度言わせて頂きますが、根本は工部であって、玉×静蘭×玉ではありません(諄い)。私の中では、2人とも受けです(きっぱり)。 なんか、話の流れ上、静蘭×秀麗…ってな箇所はあるかもしれませんが、そんなことはけしてないです。寧ろ、劉輝のところへと顔を出しに行って(そして、いろいろ引き止められて帰りが遅くなって)、その後の話……みたいな? そして、こっそり工部なのです。玉は二胡くらいできると思いたい…余裕で!という話。 因みに、タイトルに深い意味はありません……ごめんなさい、私は、話を作る上で一番できないことが、タイトルをつくるということなのです…これだけはもう、へっぽこです(涙) |