いきもののにおいだ

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すっかり手に馴染んでしまった髪結い道具の入った木箱を片手に提げながら、一仕事終えた斎藤タカ丸は、四年は組の長屋へと続く廊下を歩いていた。
廊下から見上げると、廂の向こう側には、少し雲掛った青空が覗く。天気の良い日だ、陽射しを上手い具合に雲が和らげてくれる。一年は組のみんなと校庭で遊ぶのも楽しそうだ。しかし、今日の授業はもうないが、これからまだ課題に勤しまなければならない。編入生であるのだから当然の処遇ではあるのだが、大変だ、そう小さく呟きながら、タカ丸は足を進めてゆく。
「・・・・・・おやぁ、」
庭の方に意識を向けながら歩いていると、不意に、視界の端に人影が映った。深緑の制服。六年生だ、と、タカ丸が判断するのに、殆ど時間を要しなかった。今の今まで、同じ制服を着た人物と一緒にいたのだ(それでなくとも、制服の色で学年を見分けられる程には、この学園に馴染んでいるつもりだ)。
どうやら、何か下を向いて、困り顏の様子だ。手には何処から取り出したのか縄が握られている。もしかしたら、最初から身体に隠し持っていたのかもしれない。だとすれば、忍者ってすごいと、タカ丸は改めて感じた。備えあれば、とはこのことだろうか。
しかし、何をするために縄を握っているのかがわからず、タカ丸はついつい身体を廊下から乗り出すようにして庭を見下ろすと、どうやら掘られた穴に、その視線は向かっているようだ。もしかしたら誰か落ちたのかもしれないな、と少し心配に思いながら、タカ丸は、髪結い道具を廊下に置いて、庭へと繰り出した。
「―――食満先輩、」
タカ丸は、少し、駈け足になりながら、穴の中に視線を向けている食満留三郎へと声を掛けた。相手も、タカ丸が近付いてくることを了解していたようで(最高学年なのだから当たり前だろう)、顏を上げると、とりわけ目立った反応もなく「斎藤」と呼び返してくる。
「・・・・・・いや、ちょっ、待て!足下に―――あ、」
「・・・へ、・・・・・・っ、おやぁああっ!?」
ある地点に足を踏み出し、そのまま前に進むのだと、タカ丸は意識もしていなかったし当たり前だとすら思っていたが、留三郎の焦ったような発言に違和感を覚えるのとほぼ同時に、地面を踏み抜いてしまった。どすん、と、鈍い音がし、腰背部に痛みを感じて、タカ丸は漸く自分が落とし穴に落ちたと云うことを自覚した。
「・・・痛い、」
言葉にすると、余計に痛みが増すように思えるのだから不思議だ。タカ丸は、頭に付着した土を払い落としながら、円状の出入り口を仰いだ。
「大丈夫か、斎藤」
すると、すぐに気遣うような声が掛けられ、逆光でその表情を覗くことが困難であったが、それが留三郎だとわかると、タカ丸は平気です、と返した。背中の痛みも、恐らく一時的なものに過ぎないだろうと、経験から判断する(だって、落とし穴に落ちたことは何もこれが初めてではないのだ)。
「足は、」
「・・・大丈夫みたいです、」
足関節の背屈と底屈を幾度か繰り返し、何の異常もないことを確かめてから、それを伝えると、今度は他の質問が降ってくる。
「頭、打ってないか、」
「はい」
はっきりと答えると、そうかと、安心したような言葉が降ってくる(ああ、良い先輩だな、とタカ丸は少し感激した)。すると、穴から一度留三郎の姿が見えなくなると、今度は外でその声が遠退いて聞こえてきた。
―――伊作、あと少し待ってくれ
そう聞いたタカ丸は、漸く、先に穴に落ちてしまっていた人物が誰であるかを理解した。保健委員長であり、不運でもあると云われている善法寺伊作である。何度か保健室に世話になったこともあるため、面識もある。同齢ではあるが、優しい兄のような印象を受けたことを、タカ丸は覚えている。
再び留三郎が戻って、縄降ろすから上がって来いよ、と云う言葉を降らせると、言葉通りに縄が穴の中へと降りてくる。
助けが来たことから余裕が生まれたのか、穴の中で、土壁に手をつきながら立ち上がるときに、土の匂いを感じた。ぱらぱらと土が落ちてきたり、小さな虫が蠢いたりしている。植物の根もちらほら覗く。そんな湿った感触に、落とし穴がまるで生きているような、そんな感銘を受ける。
「・・・だから、喜八郎も、夢中になるのかな、」
後で喜八郎に話してみよう、タカ丸はそう思った。
「・・・・・・・・・どうかしたのか、」
留三郎が言葉を落とすと、何でもないですとだけ返して、縄を握る手に力を入れる。まだまだ頼りない手掌ではあるけれど、編入当時よりは、肉刺や傷が増えている。それが、ときどき、誇らしい。
上から、軽く引っ張る力に助けられるように、タカ丸は足底を土壁に圧し付けて円い出口へと這い上がる。
漸く辿り着いた地上に、タカ丸は腰を下ろして長大息を吐く。留三郎が苦笑しながら、今度は伊作の落ちている穴へと縄を降ろしているのがわかったが、今は呼吸を整えることにいっぱいいっぱいであった。それでも、少しの間隔を作って掘られている隣の落とし穴を、視界の端に入れつつ意識を向ける。
少し待つと、自分のときよりも短い時間であっさりと伊作が這い上がってきた(しかも、留三郎の手助けを借りずに、だ)。制服の汚れはあるが、怪我は見当たらない。さすが、最上級生であると感心を覚えた。もしかしたら、不運のせいで落とし穴に落下することに慣れてしまっているのかもしれない、とも思わなくもなかったが、先輩の顏を立てるために考えなかったことにした。
「タカ丸くん、大丈夫、」
怪我とかしなかった、と、心配そうに尋ねてくる伊作に、タカ丸は先程と同じように平気であることを伝える。隣で、留三郎が、人の心配より自分のことを気に掛けてくれ、と何処か呆れたように呟くのだが、この遣り取り自体が今更のような雰囲気で流されてゆく。
「そう云う留三郎だって、さっきタカ丸くんを優先しただろう、」
「それは、比較する対象が違うだろう・・・それに、後輩を優先するのは当然だ」
「まあね。でも、ほら、私の場合は慣れっこだから、このくらいじゃあもうへこたれないさ」
「そう云う科白は、この間落とし穴に落ちてたんこぶ作っていた奴が云うものじゃないな」
「う・・・あれは、偶々だよ、」
「・・・と云うか、この落とし穴も埋め直さないとな、」
「がんばれ、留三郎。保健室から応援しているから」
自分と同齢の先輩二人の言葉の遣り取りを傍で聞きながら、タカ丸は、仲が良いなぁと観察する。五年以上も一緒に生活していれば(話によれば、この二人は同室のようだから)、こんなに気の置けぬ関係になれるのだろうか。自分に残された時間はそれよりも短いけれど、こんな関係の友人ができればいいなと云う思いを、タカ丸は改めて抱いた。年下の同級生たちは、どう思ってくれているのだろう。
「・・・そう云えば、斎藤は、髪結いの道具を持って、何処かに出張だったのか、」
留三郎がタカ丸へと言葉を投げ掛けたことで、伊作との会話が終わった。留三郎は、廊下に置いてあるタカ丸の髪結い道具を指差している。その指先を追うようにして、道具へと一度視線を向ける。予め置いてきたのは、正しい判断だったなと、振り返った。
「え・・・ああ、さっき、文次郎くんのところに、ちょっとお邪魔してましたけど・・・」
「げ、あいつか・・・」
聞かなければよかった、と云う顏を見せた留三郎に、タカ丸は、文次郎と留三郎の不仲を思い出した(あれは、喧嘩するほど、と取るべきなのかは、まだよくわからない)。留三郎の隣では、伊作が苦笑いをしている。
「文次郎くんの髪は、髪結いとしてちょっと放っておけませんから。その点、お二人は、合格点です」
拇指と示指で丸を作りながら、タカ丸は笑顏を見せる。二人が苦笑するのがわかる。
「となると・・・小平太辺りも危なそうだ、」
伊作が呟くように云った言葉を、タカ丸は耳にした。とりあえず、忘れないでおこうと思いながら。
すると、遠くの方で「タカ丸さーん、」と呼ぶ声がして、三人は反応する。滝夜叉丸の声だ。
「それじゃあ、呼ばれているみたいなので失礼します。・・・・・・あ、髪に関することだったら、いつでもどうぞ〜」
手を振りながら、廊下へと向かって駆け出したタカ丸を、留三郎は転ばないだろうかと少し心配に思いながらも、伊作とともに手を振って見送った。





おしまい

文次郎は、同じ齢であるタカ丸に対して結構学年関係なく関われるいい男だと思います。対して食満は、後輩大好きなので、タカ丸を後輩として大事に扱ういい男です。伊作も似たようなものです。そんな感じなので、食満は「斎藤」伊作は「タカ丸くん」という呼び方だし、文次郎くんに対して、タカ丸は「食満先輩」と「伊作先輩」という呼び方になっております。私の勝手な妄想。
あ、タカ丸の髪結い道具の木箱(?)っていうのは、あれです、お裁縫道具や救急セットみたいな感じの箱。大体そんな感じだと思って下さると大変ありがたいです。