それ以外は狂気の沙汰
Ubrall sonst die Raserei.



つい先刻まで、珀明は確かにこの王の執務室で恐れ多くも主上と言葉を交わしていたはずであった。
しかし、どうしてか(と云っても理由は明確である)、突然可愛らしい跫音と共に「しゅじょぉおおお!」というこれまた可愛らしい叫びが闔の向こうから段々と近付いて聞こえてくるのを察知した劉輝は、窓に足を掛けて、そこから脱出を試みるという王にあるまじき行為で逃げ出した。一人捨て置かれた珀明は、その後、しなくてもいい言い訳を、叫び声の持ち主である羽羽に対してする破目となり、今に至る。
執務室は、静かであった。
とりあえず、珀明は、劉輝が逃げ出したときに床に散らばってしまった書類を、片すことにして、腰を折って拾う。
主上が在らせられない今、仕事を果たすこともできない。このまま立ち去るべきか、それとも戻ってくるだろうと信じて暫く待ってみるか。珀明は、右手を下顎に当てながら、小さく唸る。
「―――――・・・絳攸、」
小さく闔の開く音がすると、珀明の尊敬する上司の名が珀明へと向けられた。聞き覚えのある声だ。それが、藍楸瑛の声であると察するのは大して時間を要しなかった。声でわかったのは勿論のこと、王の執務室に比較的気軽に入室できる人物はそういないからである。
楸瑛は、闔を開いて執務室にいる人物を確認すると、それが絳攸ではないことに気が付いた。
「・・・珀明くん」
「・・・藍将軍、申し訳ありません・・・けして無断での入室ではありません故、」
姿を現した楸瑛に、珀明は拱手して弁明する。楸瑛が、仕事で此処にやってきたのならば、劉輝に関しても耳に入れておくべきだろうと考えた珀明は、先程の出来事も語った。
「・・・・・・そう、主上も大変だね、」
珀明からの話を聞いた楸瑛は、軽く苦笑して見せた。
「そういえば、絳攸は元気かい、」
楸瑛の言葉は、何の変哲もないそれこそ日常会話で充分に有り得るものであったけれども、どうしてか、珀明の耳には不自然な非日常の会話のように聞こえた。それは恐らく、自分の上司である絳攸の友である(絳攸は腐れ縁だ、と叫んで主張していたような気もする)楸瑛が、わざわざ自分に絳攸の状況について尋ねてきたからだろう。しかし、連日、吏部に籠り切りでいる絳攸の現状を思い出し、それも無理もないことであるなと、珀明は思い至った。
本当に、吏部は忙しかった。斯く云う自分も多忙な身ではあるけれども、侍郎である絳攸はそれ以上の多忙さで働いている。実際今も、吏部を離れることのできない絳攸の代わりに、機動力のある珀明がこの執務室に来ていたのだ。
「・・・元気、と申しますか、とても精力的に多忙な時間を過ごしていられます。今に始まったことではありませんが、吏部は書類や書簡で埋まって大変です。要するに、大変お疲れが溜まっていらっしゃいます、」
珀明の言葉に、そうだよね、と賛同の意を示した楸瑛の表情は、何処か普段とは異なって憂いを帯びているように、珀明の目には映った。見上げる楸瑛の顏は、常と変わらず端整であったけれども。
「・・・藍将軍も、何処かお元気がなさそうですが、」
「私?・・・まあ、私は身体的には快調だから心配はないけど、寧ろ、絳攸の方が心配だ、それこそ今に始まったことではないのだけれどね・・・」
珀明の指摘に、楸瑛は苦笑を深くして答える。
確かに、吏部官である自分もこの連日の多忙さは身を持って知っているが、それでも、その長さから云えば、楸瑛も長く付き合いのある絳攸の様子を見ていて知っているのだろう。何処かはぐらかされたような感覚を覚えながらも、下吏である自分が深く踏み込むことの不必要さを察した珀明は、それ以上の言葉は避けた。
「・・・それにしても、羽羽様から逃げているならば、主上は当分帰って来ないんじゃないかな。悠舜様のところにでも避難していたりするかもしれない、」
そうですかと、珀明は返事をしつつ、眉間に薄い皺を寄せる。唯でさえ滞っている仕事が捗らないのは少し痛いものがある。
「・・・・・・・・・先刻、君のことを絳攸と云い間違えてしまったね、」
「え・・・はい、」
突然転換された話題に、珀明は少し戸惑いを覚えながらも言葉を返す。
「姿を確認するまでは、本当に絳攸だと思ったんだ・・・・・武官として、気配も察せられなかったのかと云われたら、とても困るんだけれど、」
僅かに気まずそうな表情を浮かべた楸瑛は、更に言葉を繋げた。
「結構久しぶりだったから、少し嬉しいと思ってしまったよ・・・すまないね、間違えてしまって」
「い、いいえ・・・こちらこそ紛らわしい真似をしてしまって・・・」
そう云えば、執務室に来たときにも、劉輝に絳攸について尋ねられたことを、珀明は思い出した。劉輝からしてみれば、絳攸のおとないを楽しみに待っていたに違いない。劉輝の見せた、少し哀しげな笑顏が、やけに印象に残って離れない。自分と対して歳も離れていない若い王は、恐らく求めているのだろう、信頼する己の股肱を。
「・・・でも、どうしてか、闔を開いて君を見た瞬間、若い頃の絳攸とだぶって見えてね・・・珀明くんは、昔の絳攸に少し似ている、」
若い頃の絳攸を想起する楸瑛の顏は、何処か優しげであった。
「・・・あ、でも、珀明くんの方が素直だよ」
そもそも、絳攸と較べられること自体が恐れ多いことであると考えている珀明には、楸瑛の言葉は少し耳にするのを控えたいものであった。
「龍蓮は幸せ者だね・・・こんなに優しい珀明くんがいるんだから、それに秀麗殿や影月くんも」
「・・・・・・はぁ、」
こちらとしては、多大な迷惑を被っていることが屡であるため、珀明はあまり気持ちの籠った返事を返すことができなかった。兄の手前、龍蓮を少しは立てておくべきかと思わないこともなかったが、どうしてもそんな努力をしようという意志は、残念ながら生まれてこなかった。
楸瑛は、そんな珀明の胸中を理解しているのだろう、再び苦笑を見せる。
「・・・・・・ぁ、の・・・」
どうして、髪に触れて来るのですか。
急に伸ばされた楸瑛の逞しい腕に、珀明はたじろぎながらも視線で訴える。まさか、楸瑛がこのような行為をしてくるとは思いもしていなかった珀明は、身体が固まったかのように動かない。それどころか、今度はこちらが、楸瑛に龍蓮がだぶって見えるという状態に陥った。それが、余計に拒むという行動へと発展できない要因にもなった。兄弟だからだ、とても色が似ている。けれども、龍蓮よりも逞しい体躯が映る。
珀明の髪に触れてきた手掌が、軽く珀明の頭を牽いて前傾させる。それと同時に、側頭部に口付けられて、身体にどうにも説明しようのない痺れが頭部を中心に走った。
「・・・っっ、」
楸瑛は、直ぐに珀明を解放したけれど、離れると同時に、龍蓮を愛してくれてありがとう、などという言葉を耳許で囁いてくるものだから、珀明はやはり手を出すことができなかった。触れられた個所を手掌で覆う。
卑怯だ。
自分の顏が紅潮していることを自覚している珀明は、未だ傍に立つ楸瑛の顏を見ることもできずに俯いた。一体、どのような意図でもって、楸瑛がこのような行為に及んで来たのかを考えてみたが、全く答えが出てこない。揶揄っているのならば、まだ対処しようもあるのだが、そのような感じは全く受けられない。
「・・・卑怯、です、」
「そうだね・・・全くそうだ。藍家の者はとても計算高く卑怯だ。以前、絳攸にも云われたことがある・・・・・・君も気を付けた方がいいよ」
それが、遠回しに、龍蓮もその一人なのだから、と示唆しているように感じられて、珀明は息を呑んだ。先程からの楸瑛の言動に矛盾を感じて、更に頭が混乱する。
「・・・・・・龍蓮は、いえ・・・・・・僕は、きっと、龍蓮を、悪い意味では裏切りません、」
心の友であるということを、自分の中で自覚してから、その関係は途切れることはなく続いていくのだろうと、珀明は考えていた。だから、龍蓮が自分たちのことを拒もうとしない限り、自分を含めた4人は、どんなに遠く離れていても友であり続けるのだろうと。
「そう・・・ありがとう。そう云ってくれると、私も嬉しいよ」
そう、僅かな悲壮を漂わせながらも薄く笑う楸瑛の瞳が、再び龍蓮のそれと被って見える。似ていると思ってなどいない、しかし、そう脳裡に残ったのは、恐らく同じ色がさせたのだろうと、珀明は自身にそう弁解する。
戻るのかいと、楸瑛が尋ねてきた。珀明は、先程から抱いていた警戒心を解くことはなく、ただ短く肯定を示した。ともかく、王が戻ってくる頃を見計らって再び来ればよいと、珀明は考え結論付けた。
「・・・絳攸に、よろしく伝えてくれるかい、」
絳攸、と、その名を紡いだ楸瑛の瞳は、龍蓮が時折見せるそれに似ていると、珀明は感じた。それは、よく、自分や秀麗、影月の名を口にするときのものと同じだ。
珀明は、再び是と答え、小さく拱手をし、少し早足で王の執務室を後にした。





手、頬、瞼、額、掌、腕、首、唇以外ならば狂気の沙汰。
なんか、新境地っていうやつでしょうか・・・楸瑛×珀明(?)でも前提は双花龍/珀。楸瑛は、絳攸のことを愛していて、龍蓮のことを大事に思っていて、珀明のことを可愛いと思っていればいいよ、って話(かもしれないしそうでないかもしれない)。