掌は懇願
In die hohle Hand Verlangen,



手を曳かれて、珀明は月明かりで仄かに明るい庭院へと足を踏み出す。睡衣に薄い布を肩に羽織った恰好はそれなりにあたたかかったけれど、外気に触れてしまう手掌や顏は、やはり少し寒い、それが室内で自分を襲っていたはずの睡魔を追い遣る。吸気と呼気を繰り返す、白い息が生じる。それが、僅かばかり露わになっている肌に沁みる。
すると、我先にと庭院に降り立った龍蓮が、そこに設えてある石造りの長条椅へと腰掛けた。珀明は、甃(いしだたみ)から草坪(しばふ)へと移り、その傍へと歩を進める。同様に腰を下ろすのではなく、ただその傍らに佇んだ。徐に左の手首を曳かれて、掌へと口接けられる。小さく掌を吸う音が鳴ると、やんわりと生温かな感触がして、珀明は小さく竦んだ。
この接吻が何を意味するのかなんて、珀明は全くわからない。月明かりの下、恋人宜しく浪漫を語られても困る。寧ろ、風邪をひいたら大変だとこちらの体調を慮ってくれればそれでよいのに。そんな珀明の考えは、飽く迄頭の中での産物でしかないのだから、龍蓮に伝わる気配は一向にない。
はなせ、と呟くと、龍蓮は思いの外素直に解放を許す。だが、解放の前に、掌の肉を僅かに唇で食まれ、珀明は紅潮する頬(それはけして寒さのせいだけではない)で、龍蓮を睨む。
「月が……、」
龍蓮の途中で途切れた言葉にいざなわれて、珀明は昊を見上げる。殆ど中天にかかる朗月は、それだけで地上の人々に時刻を与える。
「月、綺麗だな」
そう云うと、何故か龍蓮が顏を綻ばせるのが分かった。訳が分からない。月が綺麗で嬉しいのだろうか。だとしたら、なんて単純な奴だと思う。珀明は、嘆息し、今度こそ龍蓮の隣へと腰掛けた。
すると、今度は何故か、月ではなく珀明の方を見て珀明と同じように龍蓮が囁く。何でもない、ただ、今宵の朗月への賛辞で、特別飾られた言葉というわけでもないのに、珀明は再び自分の頬が熱くなるのを自覚した。龍蓮が再び囁く、まるで、愛を囁くように。
「月が、綺麗だ」





かの有名な夏目漱石は、英語教師をしていたとき、生徒が"I love you."を「あなたを愛しています」と訳したら、「月が綺麗ですね、と訳しておきなさい」と仰ったそうです。日本人はそんな率直に言わない、と言うように。日本人はこれでわかる、だそうです。ありきたりなネタですね。
因みに、かの有名な二葉亭四迷は、「あなたのためなら死んでもいい」と訳したそうです。