境界
は何処までも冷徹渓谷
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「―――――絳攸、」
不機嫌そうな声で名を呼ばれ(果たして、それはいつものことではあるのだが)、絳攸は我に返る。僅かに驚愕の色を示した顏で、絳攸は声のする方を見遣ると、やはり不機嫌な顏を前面に押し出した養い親――紅黎深――が、口許へ扇子を翳していた。相変わらず目の前に積み上げられた書簡の山になど目も呉れないで、優雅に特注の黒檀製の椅子に腰掛ける黎深は、いっそ清清しいほどに尊大であった。
「公務中に上の空とはいい身分だな」
「(貴方がそれを云いますか・・・・・・)」
本来なら、公務もせずにのうのうと吏部長官の地位に坐っている人物の科白ではない。が、それを指摘せずにいるのは、絳攸にとって黎深が何にも替え難い存在であるからなのだろうが、ただ単に逆らえないからでもある。後者の方が強い。
溜息を零しながらの言葉に、絳攸は押し黙る。
「・・・・・・洟垂れ小僧が、気になるか?」
絳攸が、冷やかな問いに込められた感情を察し倦ねていると、黎深は扇子をぱちと音を立てて畳む。その、返事を促しているのだろう行為に、絳攸はやや上方を見遣り、黎深の顏をおそるおそる窺う。
「・・・・・・は、い、正直、」
やや言葉を濁しながらではあるが、絳攸は胸の痼りを絞り出すように述べる。いつの頃からだったか、この痼りは絳攸の胸につっかえて取れない。
先日、酒瓶を片手にひょっこり訪れてきた王の姿を思い出す。それを見て、安堵を覚えた自分がいるのだ、それは不本意にも笑みが零れる程度には愛しいものであったのを大概自覚していた。そして、楸瑛と剣を交え、楸瑛が王の許(もと)を去ったときの劉輝の姿を想起する。楸瑛が、最後に浮かべた表情と言葉を想起する。
「では、藍家の小僧がいなくなって、お前は寂しいか?」
「・・・・・・っ、」
そんなことは、と口を開きかけて、絳攸はすぐさま噤んだ。口に出そうとすれば、余計なことまで吐露してしまいそうだと感じた、誰よりも敬愛する黎深の前だからこそ、それは一層強い。
「云え、絳攸」
この養い親の云うことは、仮令、どんなに理不尽で道理に背いていようが、自分にとってはそれが全てなのであり、又、避けがたいものだ。
「………寂しいとは思いません、ですが・・・」
寂しいという言葉は、果たして、正確に自分の気持ちを表現しているかと云えば、否である。そもそも、目の前の上司のお陰で、忙し過ぎて疲れ過ぎて、殆どそんな感傷に浸っている暇もない。
「・・・あれにしても、今回の件にしても、家、というものの重みを、改めて感じました・・・・・・俺は、あれが藍家の者であるということはわかっていました、でも、実際は、そんなのは言葉だけで・・・理解なんてできていませんでした、」
君とは違うのだと、湿っぽい表情で云われたときに、否が応でも突き付けられた事実だ。本当に、あの男は最初から最後まで気に食わない男だと思う、それどころか、今でも図々しく自分の心の一部を占めているのだ。そして、それは、未だ多忙の余り傍で仕えることのできぬ主上のことが頭から離れない限り、とても無理な注文であった。
「当然だ、」
そのために、紅姓を与えなかったのだから。黎深はそれを抑えるように口許を扇子で覆い、けしてそれ以上は口にすることはなかった。
「・・・お前があの男を理解する必要など未来永劫来なくてよい、」
「だったら寂しいかなんて聞かないで下さい」
寂しいなどと、思った時点で負けたような気がして堪らない。口に出したら、余計に主上のことが頭を過ぎる、一体、どうして何故誰が、考えても無駄に時間が流れてゆくだけで、一向に答えなど出てこない。ただ、一つわかっていることは、このままでは主上の傍らに立つことができないということだ、楸瑛の離反と相俟って、彼は今とても孤独だ。
「・・・・・・絳攸、お前は私に仕事をしろ、と云うか?」
そんなこと、今まで何度も云ってきたはずだ。だが、思い出してみれば、今日は一度も口にしていない。尚書室に入ってみれば、厄介なことに随分と不機嫌な顏をした黎深(結局、それはいつものことであるが)がいて、指摘できなかったというだけのことではあるのだが。
「・・・云いたくて云いたくて、堪りません。でも、云えません・・・」
「ふん、懸命だな」
所詮、自分の声は、黎深に届いていたのだとしても受け入れて貰えるほどの重要性は含まれていない瑣末なものだと絳攸は感じた。それを悲観してしまえば、今までの自分がとても惨めのように思えるので、絳攸は振り切るようにして深みに追い遣る。その上、絳攸は、いつものことである職務怠慢責任放棄を、黎深が今回は何故頑なまでに拒んでいるのか、実のところ殆どわかっていない。それで薄っぺらな言葉で説得を試みて、一体、どれほどの成果が成せようか。
「・・・興が殺がれた、帰る」
無関心な表情で扇子を広げ、椅子からすっと立ち上がる黎深を、竟に絳攸は何も言葉を掛けることができずに、見送った。
主の居なくなった室の中で、絳攸は再び胸に痼りを感じた。どうしてか、消えぬこの軽い圧迫感に、苦い表情を浮かべる。
そもそも、あの男が、楸瑛がぐだぐだと悩んで挙句いなくなってしまうから、自分がこんなにも多忙だから、主上をひとりにして、いろいろなことが上手くいかなくて、悪循環が生じるのだ。仕事をしない黎深は棚に上げて、楸瑛への文句ばかりが込み上げてくる。どうして、家からの圧力で重臣であるというのにあっさりと(とても悩んでいたのは知っているけれど)王から離れてしまう、それならば、何故王から花を受け取った、文官を辞めた時点で藍州に帰らなかった、国試など受けた。考えても無駄だと云うのに、どうしてか過ぎたことばかりが頭に浮かぶ、本当に、あの男は、わけがわからない。腐れ縁とは云いながら、自分たちの間には見えぬ確実な境界が張られていたのだ。もう、あの男に相見えることはないのだろうか。
一人思い耽っていると、闔の向こうから後輩――碧珀明だ――の呼ぶ声が敲打と共に聞こえてきて、とりあえず必要な書簡だけを両手に抱えて、絳攸は尚書室を後にした。







25000HITリクエスト小説其の2は、私の好きなように双花菖蒲とのことでしたが、何とも出来上がってみれば、本当に双花菖蒲なのかどうか怪しい(というか違うだろう)モノが・・・・・・(汗
というか、私の書く絳攸(なんて片手で数えられるほどしか書いてませんが)は、デレてくれません(甘い双花なんて書けない!)。いや、絳攸のデレは寧ろ最終兵器だと思っているよ…!発動したら楸瑛なんてイチコロ!(ぉぃ)腐女子が嬉しいくらいにツンデレなのにね!私の手にかかればそれすらも発揮できない↓↓それが大輔クオリティ(謎)というか、どうやら私は楸瑛を苛めるのが好きみたいです(ぇ)
あ、これは「青嵐」後のネタですが、いろいろ怪しい部分もあるので、細かいことは気にしないでやってください…!あれ読んでボロボロ泣いて以来、読み返すのが怖いのです(涙)