花発多風雨 |
ある日を境に、上司の雰囲気が僅かに変わったような感覚を、欧陽玉は覚えた。気のせいかもしれないとも考えたが、やはり何処か今迄とは異なる雰囲気を醸している。 幽かな変化。何かと傍にいることが多い自分だからこそ認識できるのだろうと思う、他の者は気付いてはいない。 今も、上司である管飛翔工部尚書と共に尚書の執務室に籠って公務に当たっているが、普段との相違点が見られる。彼の傍らに立ち、玉はその仕事をしている姿を静かに、そして少々の疑いを抱きながら眺める。 酒の臭いが伝わってくる。良い匂いなら玉も眉を顰めたりはしないが、如何せん、何種類もの酒の匂いが混じり合っていては戴けない。飛翔が机案に置いてある酒瓶を手にし、口に含もうと瓶を傾ける。至極美味そうに酒を嚥下する様子は、いつもと変わらない。 玉は意を決めて口を開いた。 「………いつもより、お召しになるお酒の量が少ないようですが、」 無造作に床に転がる酒樽や酒瓶の様子を一通り目にしながら、玉は言葉を発する。それらは、明らかに普段より少なかった。 「気のせいだろ」 玉の方を一瞥することもせずに、飛翔は軽く受け流す。その態度に玉は憤慨して、少し声を荒げながら言葉を返した。 「いいえ、確かに普段の半分程度です。伊達に貴方の副官を務めてはいません」 「何だ…いつもは飲みすぎだとか、飲むなとか煩い癖に、突然………嬉しくないのか?酒の臭いも薄くて喜ぶところだろ、お前の場合」 折角時間をかけて択んだ衣裳が酒臭くならないことは確かに嬉しい。飛翔の切り返しは的を得ていた。そのため玉は暫し言葉に窮し、黙る。 普段の半分程度とはいえ、勿論、常人以上に飲んではいるため、酒の臭いは弱いとは言えない。今も窗(まど)を開けていて、換気を怠っていない。それでも、飽く迄普段と比べての話だ。いつも有り得ないくらい酒を煽るように飲んでいる人物が、不意にその量を減らせば可笑しいと思うのが自然だ。 「………陽玉、」 玉だと言っているでしょう、この鶏頭。通常なら咄嗟に出てきてしまう抗議の言葉も、今は何故か咽喉に詰まってしまったかのように出てこない。 おかしいのだ。酒の量を減らして、普段より精力的に公務に当たる上司も、そんな上司を見て喜ぶよりも先に疑念を抱いてしまう自分も。 困惑の表情を浮かべているだろう自分を、椅子に座りながら見上げてくる飛翔が、意味もなく憎らしい。 こんな上司の姿を、こんな感情を、自分は知らない。 「…………主上に…お酒を差し上げたと、耳にしました……そのことと、貴方の最近の様子は関係が、あるのでしょう?」 今まで、飛翔が王に対してそのような行為に及んだことなどなかった。単に接触するだけならまだしも、上司が何よりも好んでいる酒を手渡すことなど、まず考えられない。 どちらかと言えば、飛翔も玉自身も、即位してそれほど月日の経っていない今上を、若造だと見ていた節があることを自覚していたはずだ。 「………知ってたか」 飛翔の肯定の言葉に、玉は確信めいた考えを張り巡らす。 「王に…忠誠を誓いになられた?」 現在の王の置かれている状況は、けして生半可なものではない。側近である双花菖蒲が彼の許から一時的にだとしても離れている状態で、貴族派からの叱責すらあったという。王を支える尚書令が新たに任ぜられたものの、まだ日も浅い。 「……いや、そんな偉いもんじゃないだろ、俺の場合。………そうだな、大人として、若者のためにちょっと歩み寄っただけだ、幾分遅い出だしだけどな」 やや恥ずかしげな表情で語る飛翔に、玉は返す言葉が見つからなかった。 「……確かに、王もその側近2人も……今まで俺達を頼ってこようとはしなかった。でもな、俺も…勿論他の重臣も、若造共に歩み寄ろうとはしなかった。今の朝廷の状況はそれが生み出しちまった結果だ…………まあ、悠舜の請け売りだ」 いつもより真剣に、そして饒舌に語る上司は、やはり玉の知らない男のようだ。 彼は、そうして歩み寄った結果、尚書令と同じように危険へと足を踏み入れてしまったことを承知しているのだろうか。今はまだ大丈夫なのかもしれない。けれども、表立って現王を支えようと努めている尚書令は、今も生命の危険に晒されている。 「貴方は……」 尚書令である悠舜が飛翔の同期であり、親しい友でもあることを玉は知っている。だからこその飛翔の決意なのだろうか。 「辛気臭い顏すんな」 飛翔の苦笑を浮かべた表情を目にして、玉は再び口を噤んだ。 「…何も、工部が揃いも揃って王に歩み寄れなんて強要するわけじゃねぇんだ……ま、長官が率先したらそう言う含みがあるかもしれねぇが、」 そこまで口にすると、飛翔は一呼吸置く。 「俺は………お前を――――道連れにはしない」 至極真面目な表情で、低く呟くように言葉を吐く。その真摯な眼差しに、玉は息を呑む。手にしていた書簡をきつく握り締めた。そうでもしないと、この遣り切れない感情を、どう処理したらいいのかわからない。 「お前は、自分の信じる道へ行けばいい、それで俺は構わねぇ」 以前、黎深が養い子に対して言っていた言葉を思い出す。自分の好きなようにすればいいと。あの2人の場合、お互いへの執着が大きすぎて、どうしてもその一線を踏み越えられないでいるのだが。 だから恐らく、今のこの状況は、彼らと同じようなものなのだろうと飛翔は思う。信じているからこそ、大切だからこそ、思う通りに生きて欲しいのだ。 「俺には俺の……お前にはない強みがある」 「……それは、」 家だ。 言葉にせずとも、玉は瞬時に理解した。飛翔と視線が絡み、気まずさからか、玉は軽く視線を逸らした。それを飛翔はさして咎めない。 玉の属する欧陽家には、どうしても彩七家の一つであり、欧陽家の本家である碧家という存在が纏わりつく。特に、玉は本家に対する忠誠や誇りが強いためそれも一入(ひとしお)だ。 だが、飛翔にはその柵(しがらみ)と言えなくもない存在を背負ってはいない。 「これは、黎深や鳳珠にも無い……あいつらは、最終的に家を取るしかない。でも俺は違う、俺なら、悠舜を選べる」 それを玉に向けて言うことで、玉の立場を示唆する。飛翔はそれらを理解した上で、玉に対して予め逃げ道を作ったのだ。 「………私は、家が大事です」 分家であっても、碧家に多少なりとも関わることのできる場所へと生まれてきたことに限りない誇りを抱いている。そして、その碧家のために官吏になり、日々奔走する直系の少年の存在が愛しい。 「わかってる」 寛容にも、全てを受けとめようとする上司が、涙が零れてきそうなくらい憎らしい。手の中の書簡を投げつけられたらどんなにすっきりするだろうか、けれども寸でのところで止める。 「しかし、貴方と共に仕事をする日々も大事です」 道は違えるのだろうか。こんなにも傍にいるというのに。 今までにないほど感じる、家という存在の重み。今後、これ以上の重みを感じる時がやってくるのだろうか。 「………玉、」 不意に正しく名前を呼ばれた。伸びてきた手に前膊を掴まれ、真っ直ぐ見詰められる。 嬉しさからなのか、頬が紅潮するのが自覚でき、思わず空いた方の掌で隠す。室の中を漂う酒気に中てられただけだと言い訳できたらどんなによかっただろう、だが生憎、酒には滅法強い体質だ。 「………お前が死んだら、骨を粉にして酒に入れて飲んでも構わねぇくらいに、俺はお前のこと気に入っているからな」 「……そんなもの、以前、聞きました」 愛情の示し方を間違っているのではないかと、詰(なじ)りたい。けれども、何処か嬉しさを感じている自分がいることも確かだった。 玉は瞼を下ろす。その所作に導かれるように、椅子から腰を浮かせた飛翔が静かに接吻する。異常なまでの優しい口付けに、眦が僅かに滲んだ。 「…っ………」 唇が離れると、再び囁くように名を呼ばれ、玉は堪りかねて吐息を零す。 どうしようもない程にこの男を気に入ってしまっているのは、自分だ。玉は、小さく自嘲の笑みを浮かべた。 だが、いつか家か、この男かを選ぶ日がやってきたとしても、既に道は決まっている。 「……精々、くたばらねぇように気をつけるさ」 苦笑交じりにそう言う、この男の言葉を信じるしかない。危険な立場へと身を委ねようとしている飛翔を守るだけの力はないことを、玉自身充分理解していた。いや、仮に可能なのだとしても、表立って庇護することなどできはしないだろう。 家という名の柵を持たない故の自由、それは、玉が今まで望んだことのないものだ。 「貴方など、何処の誰かもわからない人物に殺される前に、酒の飲みすぎで肝臓を病んで死んでしまえばいい……っ」 そうなれば、最悪の事態も絶望的な思いもきっと自分へ訪れることはないのに。あれほど酒は控えろと言ったのにと言えるだけの余裕を望めるのに。 玉の言葉に一瞬瞠目した飛翔だが、直ぐに破顏してみせた。 緊張感の片鱗すら見せようとしない男に、玉は苛立ちを覚える。罵声を浴びせたい。 自分でも無意識に下唇を噛んでいた。だが、徐に伸びてきた指によって軽く唇を開かれ、再び口付けられる。 「……どうして、」 どうしてこの男なのだろう。 結局最後には、この男を選ぶことなどできはしないのに、その最後までは傍らに留めておきたいと思う。そして、同様に彼にとっての最後まで自分を横に置いて欲しいと願っている自分がいる。 どうして、こんな矛盾した感情が生まれるのだろう。 考えてもきりがないのだが。 「………どうして、貴方なのでしょう」 よりにもよって、飛翔が上司である工部の侍郎に配属されてしまったのだろう。吏部だったら、戸部だったら、もっと違っていただろうに。 すると、再度飛翔は苦笑を漏らす。 「んなの、今更だろ?」 これだから単純思考の人間は羨ましい、玉は呆れつつも僅かに笑みを浮かべる。そして、自分とこの男の違いを改めて認識する。 不安はあるのだろうが、限りが見えている関係だからこそ、飛翔はお互いの関係を大切にしようとする。できる限りの手助けを与えてくる。 しかし、相反して、自分は過ぎてしまったことを嘆き、前途を憂えるだけだ。 「……玉、」 滅多に口にしてくれることのない名を、この低い声で囁かれるのに、玉は滅法弱かった。一言囁かれるだけで、言葉を失ってしまうのだ。 「好きだ…」 離れたくない、離したくない。恐らく、自覚している以上に。 それでも、口にできない。 触れてくる大きな手の温かさが、やけに苦しい。 「………貴方が亡くなった折には、骨を粉末にして上等の酒と一緒に呑んで差し上げます」 玉にできることは、ただ、飛翔なりの間違った愛の表現を同じように返すことだけだ。 詰まるところ、死んでも尚、この男の一部は自分のものなのだと。 羞恥心のせいで、飛翔から顏を逸らす。 「殺し文句だな」 「っ………貴方流の、でしょう?」 至極嬉しそうな、それこそ酒を飲んでいるときのような表情をする飛翔は(彼がこよなく愛する酒と同等のようで嬉しかった)、やはり離れ難かった。 了 タイトルは、于武陵の詩「勧酒」の第三句から抜粋。この詩は、彼の有名な井伏鱒二氏が訳したことでも有名です。 この詩は結構工部に合うのではないのかなぁ、という理由から使ってみましたvvv『花発多風雨』という部分は、井伏氏の訳にもあるように、日本語では「花に嵐(月に叢雲 花に風)」=「世の中の好事には、とかく差し障りが多いことのたとえ」。工部の関係にも差し障りがある、といいな。 工部をまともに書いたのは、これが初めて……普段は、もっと口喧嘩ばかりしていると思います。 2人は大人なので、結構淡白…かな?でも、工部は「青嵐」で萌えました!これから工部ファンが増えてくれないかな、と願いつつ、工部を書きたいですvvv それにしても書いていて、玉が珀明と被ります(苦笑) |