風 逢

こんなに穏やかな気分になったのは久しぶりかもしれない。そう、思いに耽りながら、大きな岩に座って、さらさらと流れる川に釣竿の糸を垂らしている。
丁度、天気も良く、気持ちのよい風も吹いている。ここが人間界でなければ、哮天犬を出してあげるのにと思った。

目を閉じれば、脳裏には懐かしい人物が、今でも鮮やかに蘇ってくるというのに、その人はもういない。
人間界から仙界へと移ってから2度目だ。こうして、人間界へと降り立ったが、その様子はあまり変わってはいないように見えた。長い間、教主の仕事をこなしていたせいか、その事実は懐古の情を煽った。

「(・・・別に、あの人を探しに来たわけじゃない・・・・・・)」

初めてこの地に降り立ったのは、仙界に移ってから間もない・・・・・・そう、あの武王が亡くなったときだ。王に着任してからたった2年で。牧野の戦いでの傷が祟ったのだ。人間は儚いと、武王の死に直面して、改めて認識した。もう、この地に、自分の知る者は存在しない。武王の妻である邑姜も、2人の息子の成王すら、今では古人でしかない。

「(太公望師叔・・・)」


そして、太公望こと伏羲は、その時、武王たちの元へと一足早く
向かっていたようで、周公旦を始めとして、その他の者達も、その事実をその後に語ってくれた。しかし、誰に聞いても返ってくる話は、同じだった。
ただ、軍師が・・・・・・太公望がふと、武王の床に現れて、邑姜達と共に武王の最期を看取った、と。その後の太公望の消息は不明だ。それから、誰も太公望に会ってはいない。

気を取り直すように、魚が釣れるはずもない釣竿へと視線を向けた。





「ん・・・・・・珍しいのう、ここに人間がいるとは」

後ろから、年若い男の声が聞こえた。不覚にも驚いた楊ゼンは振り返らずに返事をした。例え、自分が人間の格好をしていようとも、外見はいつもと変わりはない。今、人間界に仙道は存在しない、してはいけないのだ。気付かれるのも、感づかれることもあってはならない。

「それでは、貴方もその珍しい1人なのですね」
「そういうことになるかの」

その男も、楊ゼンが振り返らないことを気にも留めず、会話を続けようとする。久しぶりに人間と会話をしていると思ったが、不思議と悪い感じも違和感も、楊ゼンは覚えなかった。

「大物は釣れたかのう?」
「いえ・・・残念ながら、これは魚を釣るためのものではないんです」

男の言葉に、川の中に垂らしていた釣竿の先を上げて示した。釣り針は、曲がることなく、ただまっすぐと伸びて、魚釣りへの目的を成し遂げることは不可能だった。それを見た男は、物珍しそうに笑った。

「可笑しなことをする男だのう・・・・・・それは、お主が考えたのか?」

その男の、あまりにも核心を突いた言葉に、楊ゼンは、驚かずにはいられない。しかし、何故か、この男には、真実を言うのを躊躇うことはなかった。

「いえ・・・・・・僕ではなく、僕の・・・・・・」
「ん?」
「・・・・・・いえ、でも・・・これは、精神統一というか、心を落ち着かせるためのものなので」

自分の言葉に自信を持てない、一体、自分にとってあの人は・・伏羲は、どのような存在だったのか。それを見出せないからこそ、楊ゼンの中には迷いが渦巻いている。女?との戦いで伏羲と話したきり、楊ゼンは1度も彼と言葉を交わしていない。結局、あの決着をつけるという約束は何だったのか・・・。

「物好きだのう・・・・・・さすが、仙人様と言ったところ、か?」
「・・・・・・・・・仙人は、もう、ここにはいません」

なんて、核心を突いてくるのだ、この男は。冷静な楊ゼンですら、感嘆してしまいそうだ。その鋭さに、楊ゼンは、今はなき伏羲・・・太公望の影を追い求めてしまう衝動に駆られた。無駄だと、再会は望めないとわかっていながらも、やめられそうもなかった。

「知った口ぶりをする・・・わしは1度、ここで、仙人様に会ったことがあるぞ」
「・・・まさか」
「いや、本当だ」

柔らかく笑いの含まれていた男の言葉が、今、この時だけは、それを感じさせない声だった。それを聞いて、嘘ではなく本当のことなのか、と信じた楊ゼンがいた。まだ、出会って間もない・・・仙道の楊ゼンからしたら、瞬きするのと大差ない時間であるにしてもだ。
とすると、考え得る人間界にいる仙人など、彼・・・最強の道士と謳われた申公豹ぐらいだ。勿論、彼の言葉が真実、とすればだ。

「お主もそうなのであろう?」
「先程も言いましたが・・・もう、仙人はこの世界にはいません」

相変わらず、背を向けたまま、楊ゼンは男の顔どころか表情すらも伺うことはせず、ただ、目を瞑り元に戻した釣竿に集中するように心がける。人間界は、楊ゼンに、太公望との出来事を思い出させるのを、否が応でも煽るだけだった。

「・・・では、お主は仙人ではない、と?」
「・・・・・・・・・・・・貴方の口調は、僕の探し求めている方のものに似ています」

そう感じれば感じるほど、楊ゼンは、振り返りたい衝動を抑えるのに苦労した。振り返ったその先に、あの人がいたら、どんなに嬉しいことか。しかし、そうして人間に自分の正体を悟られてしまったら(楊ゼンの容姿は、普通の人間とはかけ離れすぎているのだ)、かつて、自分たちの起こした行動は、意味を成さない。無駄になることはないにしても。

「答えになってないのう・・・仙人様」

からかい混じりのそれに、さすがの楊ゼンも苛立ちを覚えた。

「(・・・・・・折角の落ち着いた場所なのに・・・)」

とんだ来客だ、と、さも、自分が先客だと言うように(実際、先にいたのは楊ゼンの方だが)思ったが、口には出さなかった。そして、男の質問にも、口を開こうとは思わなかった。


「・・・・・・・・・・・・・・・やれやれ・・・お主も、相当冷たい男だのう――――――――楊ゼン」


「―――――っつ!!」


言っていないはずの・・・知らないはずの自分の名を呼ばれ、まさか、と、振り向いた。楊ゼンは、深く、速く、息を呑んだ。

「・・・・・・・・・貴方は」
「あほう、もっと早く気付かんかい」
「師叔」

視界が広がった気がした。
空はこんなに広かったのか。
新しい仙界で、教主に任命されて雑務から何までこなしてきた楊ゼンだが、今まで、何処か、俯いていたのかもしれない。顔を上げて何かを見つめることもなく、ただ、やらなければならないことに追われて。しなければならないことはあるのに、心が追い求めている・・・本当にしたいことは、遠く――人間界――に。
どうして、もっと早く振り返らなかったのか、気付かなかったのか、嬉しさと共に後悔にも似た残念な思いが楊ゼンの胸の中に広がった。

「・・・・・・物好きめ」

そう言った太公望は、楊ゼンの傍に歩み寄って、その手から川に垂らしていた釣竿を取った。

「貴方に言われたくありません・・・・・・・・・お久しぶりです」
「わしを探しに来たのか?」

そして、太公望は楊ゼンの隣へと腰掛けると、手にした釣竿を再び水中へと戻した。暫く、2人の間に沈黙が生まれたが、けして重苦しいものではなく、何処か落ち着いたものだった。

「・・・・・・いいえ、と言ったら嘘になるかもしれません。でも、あまり期待はしていませんでした・・・貴方は、気紛れですから。・・・・・・そう、それに、貴方とはまだ決着、とやらをつけていませんでしたね」
「そうか・・・・・・そうだったのう」

極僅かだが、それでも、楊ゼンが察することができる程度に、太公望の手にしていた釣竿の糸がピクッ、と揺れた。

「でも・・・・・・正直、そんなことはどうでもいい・・・貴方に会えて良かった、それだけです」

柔らかい笑みを太公望へと送ると、いかにも恥ずかしげな顔をして、太公望は呆れたように楊ゼンの名を口にした。相変わらず、恥ずかしい台詞を普通に言える男だ、とでも思っているのだろう。そんな反応は、太公望だった頃も、伏羲となった今も、この人は変わらない・・・と、嬉しいような悲しいような気持ちにさせる。

「・・・・・・また、会えますか?」

「引き止めないのか?・・・お主なら、わしを引っ張ってでも仙界に連れて行くくらいはすると思ったぞ」

意外そうに、太公望は口の右端を上げた。

「どうやら、貴方を引き止めることは無理そうです・・・僕には・・・・・・いえ、誰にも」

諦めと納得を含んだ言葉を楊ゼンが発すると、再び、暫くの間言葉が失われた。
心地よい風が吹いた。
口を開くことなく、隣に座る太公望に、楊ゼンは視線を向けた。太公望は、顔を下の川に向けて、釣り糸を静かに見つめている。
ひとまわりは違う体格の太公望が、楊ゼンには、相反して・・・特に、後ろから見たときのその後姿は、誰よりも大きく見えた。しかし、太公望の細い肩を実感するたびに、その肩に圧し掛かる、太公望の運命に、遣る瀬無さを感じることもしばしばあった。
そう思えば、今、この人は、以前よりも自由なのかもしれない。
だったら、尚更、誰にも捕らわれるべきではないのだ、と楊ゼンは思った。封神計画で人間界にいたとき、何よりもまず、太公望の力になりたいと思っていたのだから。

「・・・・・・・・・触れても、いいでしょうか?」
「なんだ、突然」

このまま、無理にでも仙界へと連れて帰られないこともない。無論、今の伏羲でもある太公望に、本気を出されては到底できないのだが。・・・思っただけで、楊ゼンはそれを全て振り払った。

「・・・・・・・・・・・・よい、許す」

楊ゼンがそう言ってから黙っていると、少しだけ間を置いて、仕方ない、という笑顔で太公望は答える。
落ち着いた優しい仕草で、楊ゼンの手が上がると、そのまま太公望の頭へと乗せられた。ぽん、と軽く触れると、髪を梳くように下へと流れて離れた。

「・・・だあほ」

憎らしい相手を見るように、そして、そこには恥ずかしさも含んで、太公望は楊ゼンに言い放った。このタラシは、何故こんなときばかり控えめなのだろうか、と。そんな風に触れられたら、もっと触れて欲しいと思ってしまいそうだ。

「・・・わしは、行くぞ」

それらを振り解いて、すくっ、と立ち上がった。

「また・・・会いましょう」

風の中、姿の見えなくなる太公望を見て、風のような人だと楊ゼンは思った。掴むことはできないが、いつでも傍にある存在。これから、どんなに会わない日々が続いても、自分はこの人を忘れることはないのだろう、と感じた。

「気が向いたらな」







今更、封神演義・・・・・・楊ゼンと太公望です。大好きです、永遠に。(と、ここで宣言しておこう)
つーか、もっと楊太にしたかったような・・・このままでいいような。(?)
まあ、なんだかありきたりなそんな感じになっちゃうので・・・これは一応気まぐれ、ということにしておきます。
タイトルに意味はありません。造語です。勝手に作りました。