貴方が泥色の憂鬱を流してくれることを願ってた



不意に肩に触れてきた大きく無骨な手に反応して、静蘭は身体を反転させてその手から逃れると、背後にいる人物と向き合った。
燕青だ。
昔からよく身体に触れてくる奴だと常々感じていたが、正直そういったことに慣れていない、というよりは好きではない静蘭は、今も不快感を露わにして隠すことはない。

「―――――気配を消して私に近付くな」

本来ならこうして鋭利な視線を向けるに留まらず、腰に佩いた干将を抜き身で向けていても可笑しくはない。だが、燕青の力は静蘭がそうすることを許さないほどに強い。油断しているときか、ふざけているときでない限り、燕青はけして静蘭よりも弱い立場に立つことはない―――特に精神面では。

静蘭がやや下から覗くようにして見遣る燕青の表情は形容し難い。いつも暢気であたたかな笑みはない。僅かに笑みを浮かべてはいるものの、そこに垣間見えるものは途惑いのように見えなくもない。

「・・・・・・何故黙る」

一向に言葉を発する様子のない燕青に、静蘭は再び言葉を紡ぐ。
らしくない、そう心の中で呆れたように呟く。故に、それが燕青に伝わることはない。
だが、普段表に出ている明るく活発な燕青だけが、燕青という人間を形作る要素ではないことを少なからず知っている静蘭は、待つ姿勢をとる。

「・・・・・・・・・・・・戻っても、元気でやれよ」

暫くして、燕青の口から絞り出された言葉に、静蘭は軽く瞠目する。
茶州を去ることになった自分たちのことを思えば、前日や当日の遽しい中に言うよりは、燕青からの個人的な話を聞くのは数日前の今の方がいいだろうとは思う。
それにしても予想外の言葉だ、いや、予想外なのは言葉に込めた燕青の感情だ。この男のことだ、きっと誰よりも別れを惜しみ、そして誰よりも明るく別れを向かえるだろうと、静蘭は感じていたからだ。

静蘭は思い出す。
十数年前の燕青との、凡そ別れとも言えない別れ。ただ、静蘭が燕青の目の前から忽然と消えただけの、なんの名残も感じることのない離別。
そして、夏、燕青が貴陽から茶州へと戻るときの一時の別れ。あのときの燕青は、突然現れ突然消え、然して離別を惜しむこともなかった。

「時化た顏をするな」

覇気のない燕青の様子に、静蘭は毒気を抜かれて視線を緩ませる。その代わりに、溜息を吐く。

「・・・・・・だって、寂しいんだもん」
「もん、とか言うな、この髭親父!」

大きな子供が目の前にいるようで、静蘭は軽く眩暈を覚える。これなら、まだ貴陽で秀麗が勉強を教えている子供たちを相手にしているようが精神衛生上良いと思う。

「ひでぇ、髭剃っただろ?それに傷心中の男に向かって・・・」

そう呟くように吐くと、燕青はどさくさ紛れ静蘭の肩口へと額を乗せる。咄嗟に、静蘭が燕青の頭を退かそうとするが、その瞬間に燕青の腕が静蘭の腰を強く掴み、離れることを許さなかった。
力で敵うはずがないことを、嫌でも理解している静蘭は、無駄な体力を使わないために、解放を自主放棄した。

「お前、充分強くなったし・・・・・・やっぱ、俺もお役御免かなぁ」

燕青の言葉に、静蘭は考えるよりも先に身体が動いた。莫迦なことしか考え付かないその頭を叩(はた)いた。そして、以前、貴陽で燕青が言っていた言葉を思い出す。

「私は弱い、そう言ったのはお前だ、燕青」

返事が返ってくることはなく、静蘭は更に言葉を繋げる。

「・・・・・・お役御免だと思っているのならば、即離れろ」

私にお前はもう必要ないはずだ、そう意味を込めて言葉を放つ。

「嫌だ」

燕青は、更に腕に力を込めて静蘭を抱き締めた。今まで身体を動かしていたのだろうか、密着した燕青の体躯が汗ばんでいた。それが不快に感じられたが、それでも確かに伝わってくる温かさに静蘭は瞼を閉じた。所詮、自分が抵抗したところで、この大男には敵わないことはわかりきっていた。

「静蘭・・・・・・」

切なさを含んだ声に、静蘭は応えようとはしなかった。今、この温かさを感じてしまえば、別れたときにこの男の存在を追ってしまいそうで嫌だ。
それでも、身体に回された腕は誰よりも頼りになるのだ。この腕が、いつも傍にあればいいのに、時折、切に願うことがある。

「・・・・・・燕、青・・・・・・離れろ、放せ」

搾り出した拒絶の言葉は、不意に降り注いできた少しかさついた唇によって、掻き消えた。