にもにもおまえだけ

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怯えた様子の家人によって玉のところへと招かれた深夜の突然の客を見て、玉は暫し動作と思考を停止させた、否、させられた。躾の行き届いた家人が、このような深夜にわざわざお引き取り願うこともなく受け入れたのだ、断わりを入れることが憚られるような身分の人なのだろうと、闔(とびら)越しから訪問者のことを伝えられたときに感じたのだが、家人の後ろに悠悠と立っていたのは、紛れもなく己の上司であった。不覚にも驚いてしまった理由は、けして、この上司がこの邸を訪れることがないとか、珍しいとかそういうわけではけしてない、問題はそこではなかった。

「……どう、したのです…その恰好、」

まるで余所行きの服だ。まさかこの邸を訪れるだけのために、この男がそんな配慮をするはずもない。余程の公式な場でない限り、そんな気遣いなど面倒臭いとしたこともない男だ。けれども、普段はぼさぼさの髪はきちんとまとめられ(いつも頭に巻いてある布もなかった)、不精鬚は見る影もない。衣服に至っては、常のものよりも明らかに質も見目も良い、何故か襟元が少々崩れているのが惜しいのだが。そこまで手入れが行き届いていたのならば、恐らく、六部の尚書として完璧とも云える威厳を示せること間違いないだろうに。

「………熱でもおありなのですか、」

椅子から立ち上がると、玉は飛翔の傍へと歩み寄り、徐に額に手を当てた。熱はない。
一方、飛翔は、不機嫌な様子を崩さず、一言も言葉を発しない。

「何か仰って下さらなければわかりません、その恰好の理由も、不機嫌な理由も、」

今日は、折角の公休日である。日々の多忙な公務から解放され、両手を広げて寛げる日であるにも拘らず、この上司はこのような恰好をして、一体何をしていたのか、又、何をしたいのだ。
すると、やおら飛翔は上体を屈曲させ、目の前にいる玉の肩口へと額を押し当てるようにして凭れ掛かった。そして、長大息を吐く。まるで、そこに安息の地を見出したかのような様子に、玉は、わからないと再度思う。

「……貴方、何がありました、」
「別に…」

玉の問いに、力無い返答とも言えぬ言葉が返ってくる。それを聞きたいのだと云うのに。そして、どうしてそう思うのだと数拍置いて、玉へと問われた。その時、少し顏を上げた飛翔と横目が合うのだが、滅多にお目にかかることのできないその容貌に、玉は一瞬言葉が詰まった。けして、自分が好むような美しさはそこには存在しない。恰好いいかと聞かれても、所詮呑んだくれ親爺だ。それでも、何処か魅力を感じさせる風なのは、何故か、それも玉にはわからない。
途端、飛翔の唇が玉の頬へと触れ、次いで、唇へと移る。

「…っ、誤魔化さないで戴きたい、酒はどうしたのです。臭いがしませんよ、衣からも、口腔からも」

最早、酒の臭いが彼のにおいであると云い切れると云うのに、何故か、今の飛翔からはそれがしない。飛翔の呑む量からしても、こうなるためには、少なくとも一晩以上は酒を断つ必要がある。まさか、飛翔はそれを実行したのかと思うと(実際、そうとしか考えられない)、やはり驚愕の色は隠しきれない。
唇が離れていくと、飛翔は再び先程の体勢に戻る。肩が重い。

「………俺は、当分、結婚なんてしねぇ」
「は、」

一体、何を言い出すのかと、玉は口を開け、首を傾げる。そして、暫くして、飛翔の云わんとしていることに気付き、成程と小さく零した。

「お見合い、なさったのですか……、それならば、その恰好にも合点がいきます」

図星を突かれたのが、更に飛翔の疲労感を増幅させたのか、より一層肩口へと力を入れ、飛翔は腕を玉の腰へと廻す。甘えているのか、慰めて欲しいのか、果たしてどちらなのか。どの道、親爺にそんなことをされても、可愛さの欠片も存在しないのだが、そこに陰気な雰囲気も付加されているのだから、鬱陶しいことこの上ない。そして、この上司がこうまでなるほど、相手のお嬢さん(相当物好きだなと思う)は、筆舌に尽くし難い方であったのだろうか。

「途中で、ふけてきた」
「……莫迦ですか、貴方は」

見合いを途中で抜けてくるなど、相手の方に失礼極まりない話だ。この男の株が下がるだけならまだしも、この男の方には工部尚書という肩書が背負われているのだ、それなりの対応をして貰わねば、工部の沽券に関わると云うものだ。

「あのまま進んでも、あの娘と結ばれるなんて有り得ねぇからだよ」

余りにも断言する飛翔に、玉は問う。

「何故です、貴方を見合いの相手に選ぶ程の物好…否、できた娘さんだったのではないのですか」

無論、彼の地位をちらつかせれば、顏や年齢など構いもせずに、喰らいついてくる者は少なくないだろう。ただ、其の場合見合い相手(又は結婚相手)よりも、その家族や親族の存在が、決まって煩わしいのだ。恐らく、それは自分にも当て嵌まる事項と云えば、確かにそうだが。玉は、他人事とも云えぬ問題を、遠い目で思った。

「いいか、あの娘に、酒を嗜むかどうかまあ、尋ねてみたわけだ……そしたら、何とも奥床しい可愛い仕草で、酒は駄目だと来た。無理に決まってんだろ、俺の相手なんて」
「…………まあ、敢えて否定はしませんが、」

確かに、この上司の呑みっぷりを見せられたら、呆れるか、厭になるか、どの道好かれるという道は殆ど存在しないだろう。少なくとも、それに着いてゆける女性でないと、確実に無理だ。下戸は勿論、少し呑める程度では、いつか潰されてしまいかねない。

「それに、俺には、女房みてぇな奴がいることだしな、」

漸く肩口から顏を上げ、いつもの意地の悪い笑みを浮かべて、玉を見遣る、それもかなりの至近距離で。ああ、もうこれは落ちが見えたと、玉は諦観気味に視線を天井へと移す。何と云っても、見合いを抜け出してきてしまった身なのだ、飛翔がこのままおめおめと自邸に帰られるはずもない、つまり、このまま自分の邸へと泊まっていくのだ。

「おや、そんな方がいらっしゃったとは存じませんでした」
「てめぇ、飽く迄恍ける気だってんなら、犯すぞ」

飛翔の脅しに、玉は不敵な笑みを浮かべて挑発する(そんな言葉を吐かなくとも、結局抱く気でいるのだから、仕様のない男だと思う)。すると、それに乗ってきた飛翔に、噛み付くような口付けをされた。酒の臭いがしない、見合いの席でも酒を呑んで来なかったのだ、遠慮したのか(それはあるまい)、それ以前に遁走して来たのか、はたまた、酒は出されなかったのか。どれにしても、まるで自分へと触れてくる相手が飛翔のようではない気がして、少し落ち着かないのだけは確かであった。この上司に酒を呑んで欲しいなどと思ったのは、以前、いきなり飛翔が酒断ちして、工部官吏が驚きの余り使いものにならなくなったとき以来だと、玉は思い出す。自分も、大概、重症だと思った。







普通、見合いを途中で抜け出すなんて、駄目ですよね、はいそうですね、すみませんでした。けして、相手のお嬢さんは、飛翔の地位目当てではありませんよ(父親はどうだか知れませんが)。お酒が駄目だというのも、本当に駄目だからですよ。って何出てきもしないキャラを語ってるんだ。
玉は、内心安堵しているといい。
あ、ちなみに、飛翔は玉の邸まで軒(くるま)で来ました(どうでもいい)。