見つかりっこない、 甘い痛みをみつけてしまった |
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頭に触れてきた手指の反動で、長い髪が揺れる。同時に、耳介に掛けておいた髪も外れ、重力に遵い垂れた。耳に、くすぐったいような、言葉では表し難い、擦れるような音が、届く。龍蓮は、瞼を下ろし、それを聴く。 始めは、頭部の輪廓をなぞるようにして触れていただけの愛撫が、次第に、変化してゆく。髪に櫛を入れるようにして、五指を絡め、やさしく梳く。 珀明は、時折、この長くて黒々とした髪を羨ましいと宣う。龍蓮としては、殊更気を遣っているわけでも、だからと云って、疎かにしているわけでもないことではある。髪に意志はない。だが、大切な友が羨ましいと口にしてくれるのならば、然程意識を向けぬ己の髪にも、愛着が湧いてくるものだと思ったことを、思い出した。 臥牀の上、坐位でいる龍蓮は、立ったまま触れてくる珀明の、高い位置にあるその顏を、見上げる。 ああ懐かしいものだ、と、龍蓮は、不意に感じた。言葉にはならなかった。 ただ、思い出した。とても幼い頃、兄たちに頭を撫でられた記憶が淡く甦った。 「・・・・・・どうかしたか、龍蓮」 声が降ってくる。 けして、愛想のよい声色ではなかったが、反面、触れてくる手付きに、ひどく情が含まれており、それが、いつになく龍蓮の心を揺さぶる。あたたかい気持ちにさせてくれる。幸福、だと、そう思えた。 それは、おそらく、涙の零れるほど、幸せなことだ。 「兄が・・・昔、こうしてくれた」 但し、龍蓮が藍家を出たのは、ほんの四歳であったため、その普通の家庭での有り触れた行為ですら、遙か昔の出来事であったし、それほど多いものでもない。それらは、龍蓮の記憶に残っていた。別段、嬉しかったと云う訳ではないと、龍蓮は結論付けている。ただ、幼くして、類稀な記憶力が、龍蓮にそれを許したのだ。 「藍将軍か、」 珀明は、淡く笑いながら、龍蓮の前髪を上げた。額にも、珀明の手掌が触れてくる。 「いや・・・愚兄其の四だけではない。愚兄其の一も、其の二も其の三も・・・思えば、数えるほどであったが・・・・・・抱き上げられるよりも、心地好いものだと、思ったことは覚えている」 彼らの手掌のぬくもりを、再び感じたいとは、龍蓮は、けして思わなかった。ただ、遠く、幼い記憶だったとしても、その片鱗さえ覚えていればよかった。 今は、こうして、大事な存在の手掌のぬくもりを感じることができる。 「珀、・・・・・・・・・屈んでくれまいか、」 龍蓮の言葉に、珀明は少し疑わしげに何故、と返す。同時に、龍蓮の額から手を離すと、上っていた前髪が零れてくる。一瞬、視界がぼやけたかのように、曖昧になる。龍蓮は、僅かに頭を振って、それを解消する。少し伸びたかもしれないと、思いつつも、やはり、自分では積極的にそれをどうこうしようとは思わない。髪に意志はないのだ、だが、まるでそうあるかのように、無為に在る。それは、至極生理的なことだとしても。 「届かない。これでは、口付けすらもままならない」 そう云って、龍蓮は五指を珀明の頬へと伸ばすが、口付けが叶う距離になるためには、珀明が屈むか、己が腰を上げるしか術はない。だが、龍蓮は、自らが動くことよりも、珀明に動いて欲しいと思った。どうしても、必ずしてくれと云う訳ではない、ただ、そう願いながらも、願う振りをしてみたかった。だから、珀明に愚かだと云われるのだと、龍蓮は軽く自嘲を覚えたが、それを面には出さない。 「ままならなくて結構だ、余計なものを需めるな」 「余計なものではない・・・私には、とても、重要なものだ」 けれども、仮令、ここで龍蓮が立ち上がり、口付けようとする所作を示したとしても、珀明はけして徹底した拒絶など見せないことを、龍蓮は大概理解していた。それは、やさしさと云えるのかもしれないが、真実、甘さでもあった。優柔不断とは思わないが、僅かでもそう思わせるのならば、その要因は珀明ではなく、自分にあって然るべきだと、龍蓮は結論付けている。 「珀との接吻は、気持ちが良い」 龍蓮は、珀明が離れてしまわぬよう、その腰に回していた片腕に、もう片方の腕を足して、拘束を強めた。そして、両脚を拡げ、その間へ珀明の身体を巻き込むようにして挟み、横顏を珀明の胸腹部に軽く押し付ける。 幼い子どもが、母親か父親にするような、その仕種に、珀明は遣る瀬無い気持ちに陥った。そのせいか、龍蓮の言葉への文句とも云える返答は、口から零れる前に消滅した。代わりに、嘆息する。 雛の刷り込み現象のようだと感じながら、己に向かって体重を掛けてくる龍蓮に、珀明は、同程度の重みを、押して返して掛かる力を相殺することで、互いの均衡を保つ。 「・・・抱き締めるのも良い、抱き締めてくれたら嬉しい・・・触れ合っていると落ち着く」 けれども、とりわけ好きなのが、抱き締めたら、仕方がないと思いつつも、それでも抱き締め返してくれることだ。明確な拒絶や全幅の信頼よりも、曖昧な寛容が心地好い。 「僕は落ち着かない」 「・・・屈んではくれぬか、」 顏を珀明へと向けて、龍蓮は再び問う。 「断る」 だが、龍蓮の再度の頼みを、珀明は、にべもなく絶つ。だからと云って、別段、龍蓮は不機嫌な色を見せることはなかった。普段の珀明を知っていれば、この反応は当然と云えた。 「・・・そんなにしたければ、自分で立てばいい」 だからこそ、次に繰り出された言葉は、偽りなど含まれてはいないのだ。龍蓮から行動を起こせば、何か突出した理由がない限り、珀明は拒まない。ただ、自ら積極的に行動することもないが。 珀明の中途半端な優しさが、甘さが、悪いのだと、龍蓮は理不尽な建前を作り(自覚はしている)、珀明の腕を掴んで、己の方に倒れこませるようにして、軽く牽く。腰が曲ったせいで上体が屈曲し、縮んだ互いの顏の距離のお陰で、龍蓮は、珀明に漸く口付けた。 重なり合った口唇に、珀明は反射的に頭を後退させようとするが、龍蓮の腕がそれよりも早く動き阻止する。 「・・・卑怯、者、」 数秒程の触れ合う口付けであった。 珀明は、己の言葉をまるで無視した龍蓮の行動に、いくらかの不機嫌さを覚えて、睨み付ける。 だが、龍蓮は、そのような珀明の視線や思いなど気にする素振りもない。卑怯だと云う珀明の言葉ですら、心外だと云うような表情をするばかりであった。 龍蓮は、珀明の左手首を捉えた。珀明が、それを振り解こうと思うよりも早くに、それを妨害する程度の力で掴んだせいで、珀明は結局行動に移す前に諦めた。ふと、腕の内側を走る皮静脈に触れ、血流の動きが指から伝わってくるのがわかり、龍蓮は、珀明の生を垣間見る。それが、いとしい、と、感じた。 だからなのか、龍蓮は腕に力を入れて、珀明の身体を牽いた。そのまま、上手い具合に珀明を傍らに坐らせ、視線の高さを近しいものにする。驚いた珀明の、小さな悲鳴にも似た声が上がったが、気にはならなかった。 隣の珀明に向かって、やや身体を傾けて向き合えば、僅かに惑った珀明の顏があって、龍蓮は小さく目を眇めた。そして、その右肩へと額を当てるようにして屈み、珀明を軽く抱いた。 「・・・・・・卑怯だ、」 言葉とは裏腹に、拒絶は姿を現さない。 卑怯であるつもりはなかった、だが、珀明が、自分を拒まないような言葉を吐いて、先回りをして、笑んで見せる、そんな自分は確かにそう云われても不思議ではないのかもしれない、とそう思う。 それ程、欲しいのだと、そう宣ったら、珀明はどう響くだろう。そう考える自分に、龍蓮は軽く嘲笑した。 了.............. |