At a Science Room



天球の模型を腕に抱えながら、ひとり、休み時間の騒がしい廊下を歩いていた。

シールの星が散りばめられている透明な球の中には模型の地球が入っていて、透明な球の壁に開けられた穴からは、手が入るくらいで、どうやら、そこから模型の地球を回せるらしい。黄色のシールの星の一部一部に、『射手座』や『牡羊座』、『天秤座』などのシールも貼られていた。僕の星座でもある魚座も、勿論のことそこに存在した。
あと、それに加え2つの透明半球も手にしていた。

今思えば、自分が馬鹿だ、と思えた。
何故、あの時理科の担当に声をかけてしまったのか。もうすぐ待ち構えている期末のことについて聞こう、と思っていたのに、まんまと、今日使ったこれを片付けておけ、と言われた。そんなの、理科の教科係に言えばいいだろう、とは言えなかった。あくまで、外面の良い僕だったから、誰にもそんな本音を悟られぬよう、いつもの笑顔で仕方なく承諾した。


その時は、4限の終了時だったから、それが、貴重な昼休みまで延長されることになって、今、僕は、その貴重な昼休みを犠牲にして、ひとり偉くも、たったひとりの理科の先生に貢献している、というわけだ。周りを見れば、皆、友人と楽しく話していたり、本を読んでいたりなど、それはもう、自由奔放に過ごしているっていうのに。
なんて、損なことになってしまったんだろう。
クラスメイトでも親友でもある英二には、さっさと逃げられてしまったし。どうやら、昼休みは愛しのパートナーと過ごす約束をしていたらしい。全く、親友と相方、どっちが大切なのか・・・冷たい親友だ。

けして、重いわけではなかった。伊達に、テニス部で心身ともに鍛えているわけではない。ただ、持ちにくいだけで、せめて、この憎らしい透明半球さえなければ、上手くバランスをとれるのに。これほど、透明半球を恨んだこともない。といっても、恨む機会もないが。

それにしても、天体の分野はよくわからない。奥は深いんだけど、なんとなくわからない。
規模が大きすぎるのかもしれない。宇宙規模で見たら、僕なんてちっぽけな点にすら及ばないんだろうから。
しかも、その内容が、今回の期末にも出てくるんだから、一生懸命になって、覚えた。勿論、今の中学生が覚えている内容なんて、昔の人達に比べたら、かなり少なくなってはいるけど。
今日は、『南中』と『南中高度』とかってやったっけ?
それは大事だから、覚えておけ、って先生に釘指されたような覚えがある。
でも、時々、地球は西から東に動いているのか、東から西に動いているのか、っていうのがわからなくなってくる。いや、西から東に動いているんだけど。星とかの動きの逆だ、って覚えていればいいんだけど。まあ、星は動いていないのか。地球が動いているだけで、所詮、地球が動いているだけなんだよね。
地球が中心に動いている、なんて、錯覚させられそうだよ、全く。
動いているのは、太陽とか星とかって―――――天動説、だっけ?そういう考え。『プ』とかで始まる名前の人が、あらわしていたはず。





古くなった、木でできた理科室の扉を開けると、目の前には、黒いカーテンや黒い実験台が広がった。
今思えば、実験台は何で黒いんだろう、と思う。青学だけかなぁ、とは思ったけど、そこら辺はどうなんだろう?今度、他校の人に会ったら聞いてみようかな、と思った。もとから、実験は嫌いじゃなかったから、興味はある。

「・・・・・・・・・不二」


ふと、閉てつけの悪い扉の音がしたと思ったら、そこには、見慣れた男が両腕を組みながら立っていて。どうしたの?と聞いたら、見かけたから追ってきた、という言葉が返って来た。
だったら、もっと早く声をかけてくれれば良かったのに。透明半球と言わず、天球の模型をもれなく持たせてあげたのに。まあ、今から片付けるところだし、持ってもらえばいい。

「・・・はい、手塚」

そう言って、天体の模型を手塚に手渡した。あっさりと受け取ると、そのままそれを定位置へと置きにいった。なんで、場所を知っているのかなんてよくわからなかったけど、こっちとしては、助かったので結果オーライだろう。

「これは?」

今度は、透明半球を手渡して。

「・・・そこの引き戸を開けた左上だ」

よくもまあ、そこまで覚えられたもんだ。3年間・・・・・・過ごしてきた日々は、確かに変わりはないのに。

「よく、知ってるね」

あんまり覚えても、意味ないのかもしれないけど。思い出してみれば、先生からは、前の実験台の上に置いとけ、と、言われた記憶しかない。
先生も、僕は置く場所を知らないと思っていたんだろう、きっと。まあ、先生の手間も省けたことだし。

「前に、理科係をやっていたからな」
「ああ、そうなの」

だからか。と、納得して、手にした、理科室の鍵を持ち直した。理科室の鍵は、南京錠だった。
窓際のところにあった理科の器具が目に入った。どうやら、乾かしてあるらしい。微かに濡れていて、窓から射し込む光によって光っていた。

「・・・手塚、これは何?」
「ビーカーだ」

なんて、常識中の常識問題。じゃあ、これ。と試験管を指差して聞くと、正しい答えが返って来た。次の丸底フラスコも、手塚はしっかりと言い当てた。更に、集気ビンも知っていたらしい。

「これ」
「お前は、俺を馬鹿にしているのか?・・・・・・・・・ピンチコックだろう」

そうは言いながらも、律儀にも質問に答えている。そんな手塚は、楽しい。

「・・・・・・・・・・・・これ、何?」

最後に残った器具は、僕にもわからなかった。というより、今まで名前を習ったことがなかった。使ったことはあった。それは、スポイトに似ていたけど、なんだかスポイトとは違う。手塚なら、知っているかな、と思ったけど。

「それは、駒込ピペット、だ」
「は?ピ・・・何?」


「『こまごめピペット』」


はっきりとした発音で、手塚は繰り返し教えてくれた。

「・・・こまごめピペット?」

僕は、その『こまごめピペット』とやらを手にした。まだ、少しだけ濡れていたけど、そんなことはお構いなしに。全く、聞いたことのない名称に、そして、その『ピペット』という言葉を言った手塚に、正直、笑いそうになった。

「キミには、『ピペット』なんて言葉、似合わないね」
「ほっとけ」

でも、本気で知らなかった。
こまごめピペット、かぁ。なんだか、忘れそうにない名前だった。なんていうのか、そんなような感じの言葉を並べたら、魔法の呪文みたいな感じがする。まあ、覚えておいて損はないから、覚えておこう。それに、それを口にした手塚も忘れないだろう。今にも舌を噛んでしまいそうな名前だったけど。

「ねぇ・・・理科室って、怪しくない?」
「・・・何故だ?」

わからない、と言ったように、眉間へと皺を寄せていた。

「だって、実験台とか丁度いい高さだし、窓なんてカーテン閉めたら一発だよ?」
「ちょっと待て」

手塚が、力強く僕の肩へと手を置くと、珍しくも冷静な顔は何処なのか、焦ったような顔があった。何?と聞いて。

「何のことだ?」
「・・・・・・さあ?」

ああ、これはちゃんと伝わってるんだな、と察した。勿論、全部確信した上での行動だったけど、はぐらかした僕に、諦めたように手塚は溜息を吐いた。

「・・・・・・さっさと出るぞ」

そう言って、どんどん扉の方へと歩み寄ってしまった。

「え〜、もう行っちゃうの?」

残念、とでも言うように、文句なような抗議な言葉を出して、まさか、そんなことでこの頑固な男は折れるはずはないんだけど。まあ、時と場合によっては、かなり甘い男でもある。というのも、全て僕の我が侭ぶりの結果なのだろうが。

「鍵閉めるぞ」
「・・・って、ちょっと!」

そう言って、扉を閉めて鍵までかけようとするんだから焦る。南京錠なんだから、外から鍵をかけられたら出られないじゃない。まあ、ここは1階だから窓から脱出すればいいけど、土足、という問題さえ除けば、全く支障はない。説教されても、手塚のせいだ、と理由もしっかりある。

「もう・・・固いなぁ」

そう言って、渋々と扉に近付くと手塚は扉を引いた。
でも、扉から廊下へと出ようと思ったら、突然部屋へと押し止められた。どうして、と顔を上げると、そのまま唇が降ってきて、塞がれた。手塚の手は、扉へとついていて、僕は扉と手塚に挟まれていた。

「ん・・・・・・っ」


扉の窓には、黒いカーテン。外からは、何も見えない。そして、外へと面する窓からは、死角になっているから問題もない。

「・・・・・・ぁ・・・手塚」

思い出せば、学校でキスするのは初めてで。
それが、理科室となれば、滅多にできない体験だろう・・・怪しい雰囲気のある理科室で、だなんて・・・。最悪な場合、人体模型でも視線があってしまいそうだ。それか、カエルのホルマリン漬けとか見ながらとか。

「前言撤回・・・」

固いだなんて、嘘だった。この男も、相当甘い男だ、自分にも僕にも。
手塚が、ガラッ、と扉を引いた。すると、少しだけ紅潮した顔を、瞬間的に元に戻して、いつも通り振る舞った。

「テスト、頑張ろうね」

期末は、受験の時の内申にかなり響くから。今まで、部活ばっかりに専念してきた僕らだけど、そろそろ、と言うのか、とっくに受験勉強に専念しないといけない身になってきた。
ああ、と短い返事が返ってくると、僕は、南京錠をしっかりと閉めて、理科室から離れた。
なんだか、今日は、いろいろ覚えたような気がする。

ある、テスト前の日に理科室で起こった、非日常的な出来事。



「こまごめピペット、ピペット・・・・・・う〜ん、受験に出てくるかな?」





END